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京都嵯峨野嵐山の二尊院を出て、昼食をを食べそれから伏見の酒蔵を巡ることにした。
はっきり言って、炎天下の中嵐山を大覚寺、直指庵、二尊院と歩いただけでかなり体が参っていた。
それに、私はお酒は飲めないのである。でも、一度は京都伏見を見てみたいという思いにかられてJR奈良線の桃山駅を起点に歩き始めた。
いかにも、伏見という風景である。十石舟ぐらいが浮かんでいると尚良い。
月桂冠大倉記念館の酒蔵の玄関である。
拝観料を300円払うと、お酒をプレゼントしてくれて中を見せてくれる。中には、お酒を仕込む時の伏見の湧き水があり、お酒を試飲できない人でも水はたらふく飲める。
中庭には、さるすべりの木が花を咲かせていた。このさるすべりの木の花、このあとの観光で日光や石山寺でも咲いていた。
今回写真は撮影しなかったが近くには、黄桜酒造の酒蔵もある。
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旅:日本の風景(関西)
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拝観料を払って入ると右手に、西行庵跡という石碑が見える。
何故、こんなところに西行の庵跡があるのだろう。日本史にはまったく精通していない私には、西行は吉野山に籠もったぐらいしかわからない。
この後、本堂には御覧の様な石段を登ります。紅葉の時期は、綺麗でそれからジャイアント馬場でも高田の馬場でもなく紅葉の馬場と名づけられております。
この突き当りを右に曲がると、本堂への入り口があります。
本堂です。
この二尊院の裏手を小倉山と言っているそうです。確かに、この裏手は整備されていますが、その石仏等がかなり現代風であるため、百人一首に出てくる様な平安の奥ゆかしさは全くありません。
それに興ざめして、カメラのシャッターを全く切らずに出てきてしまいました。
下の写真の様に、法然上人の廟があります。
他にも、天皇(亀山天皇、御嵯峨天皇他分骨稜)や坂東妻三郎や田村高広のお墓もあります。
二尊院はここまでにして、これから、洛南に行くことにしました。 |
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直指庵は、中々分かりにくい場所にあった。このくそ暑い時期にこの場所を訪れるのは、私ぐらいしか居なかった。但し、本堂の中の閑静な雰囲気は素晴らしいがかなしいかな撮影禁止なのである。
この寺は、駆け込み寺とも言われ、悩みを綴ることがことができる思い出草という雑記帳がおいてあり、多くの人の思いがつづられていた。
境内には、モリアオガエルの産卵場所もあるほども辺鄙なところであるが嵐山の駅からそれほど遠く無い。それこそ、京都がいなかであることが分かる。
ところで、悩みについては私も若き頃は悩み多き青年だったが、もう世の中を達観した「じじい」なので、このところこういう事には少し縁遠くなっている。
但し境内に掲げてあった「生きていることだけで、素晴らしい?ありがたい?」(だったと思うが)の言葉は何か印象的であった。
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8月12日JR嵯峨野嵐山駅を下車し、トロッコ列車の嵐山駅を撮影し、これまで2回嵐山を訪れたがこれまでに観光できなかった大覚寺、直指庵等を訪ねることにした。
大覚寺横の大沢池には、蓮が綺麗に咲いていた。大覚寺の中には入らず、ここでしばし写真を撮影することにした。
唯一撮影した大覚寺。心経宝塔と呼ばれるらしい。
そういえば、大なんとかとかいうダンサーに逃げられた小柳ルミ子が歌っていた歌にこんなのがあったなあ。3番に注目してね。
(1) 京都 大原 三千院 恋に疲れた 女が一人 結城(ユウキ)に塩瀬の 素描の帯が 池の水面に 揺れていた 京都 大原 三千院 恋に疲れた 女が一人 (2) 京都 栂尾(トガノオ) 高山寺 恋に疲れた 女が一人 大島紬(ツムギ)に つづれの帯が 影を落とした 石畳 京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた 女が一人 (3) 京都 嵐山(ランザン) 大覚寺 恋に疲れた 女が一人 塩沢がすりに 名古屋帯 耳を澄ませば 滝の音 京都 嵐山 大覚寺 恋に疲れた 女が一人 <wikiより>
大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。
嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂(ごうじゃく)法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。
鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれた。なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。
この後、暑い中を直指庵に向かった。
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