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8月14日はこのあたりで大雨が降った様である。
石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は良弁(ろうべん)である。当寺は京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三箇所観音霊場第13番札所となっている。また当寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。<Wikipediaから>
訪れてわかったのだが、素晴らしい寺院だった。特に、私が訪れた時は、明け方まで降った雨も丁度上がり、日が差し始めた時だったこともあり、緑がより鮮やかに感じられた。
このウィキに記述されている様に決して清水寺や長谷寺と比較しても引けをとらない素晴らしい寺であると思った。
石山寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている(石山寺珪灰石は日本の地質百選に選定)。<Wikipediaから>
写真の上に写ってのが国宝の本堂であるが、兎に角この緑の鮮やかさに目を奪われてしまった。
多宝塔はこの石山寺硅灰石の岩盤の上に建っている。この多宝塔からは、瀬田川が一望できるとのことであったが、今回は時間の都合もあり次の目的地の長浜に行きたいので途中までで断念した。
それにしても、境内は広い。少なくとも見学には2時間は掛けたいと思った。
安産の腰掛石なんかもあり、妊婦さんのお参りには最適な場所でもある。
最後に鐘楼である。これも、それだけ撮影しても意味がないので鮮やかな緑を基調に撮影した。
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旅:日本の風景(関西)
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中島みゆきの曲に「狼になりたい」という曲のフレーズに「夜明け間際の吉野家では♪」というフレーズがあるが、それを少し編集したタイトルなのである。
ところで、話を戻そう。8月12日 寺田屋に行った。そう、あの寺田屋である。
寺田屋は、二つの事件で有名である。<ウィキペディアを編集>
まず一つ目は、文久2年(1862年)4月23日、薩摩藩の有馬新七らは、尊王攘夷を掲げて、真木和泉、田中河内介らと共謀して、関白九条尚忠・京都所司代境忠義邸を襲撃することを決め、伏見の船宿寺田屋に集った。当時寺田屋は薩摩藩の定宿であり、このような謀議に関しての集結場所としては格好の場所だったようである。
しかし、薩摩藩主島津久光は、公武合体路線だったため、久光は、大山綱良に命じて、有馬新七を藩邸に同行し説得するように求めた。しかし、有馬はこれを拒否し、“同士討ち”の激しい斬りあいが始まった。この戦闘によって討手1人(道島五郎兵衛)と有馬ら6名(有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助・森山新五左衛門)が重傷を負った。また2階には多数の尊王派(大山巌・西郷従道・三島通庸・篠原国幹・永山弥一郎など)がいたが、大山らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果、残りの尊王派志士たちは投降した。というものである。
次に二つ目は、慶応2年1月23日(1866年3月9日)、「寺田屋遭難」で知られる事件は、京での薩長同盟の会談を斡旋後に薩摩人として宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。龍馬や長州の三吉慎蔵らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の捕り方百数十人に囲まれ、いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。捕り方に踏み込まれた龍馬らは、拳銃や手槍を用いて防戦し、捕り方数名を殺傷するも、自らも手の親指(左右)を負傷。辛くも脱出して材木屋に隠れる。三吉慎蔵は伏見薩摩藩邸に駆け込み、救援を求めた。薩摩藩邸は川船を出し、救出された龍馬は九死に一生を得ることができた。
でも、どうやらこの寺田屋、本物ではないらしい。というのも、寺田屋は鳥羽伏見の戦い(1868年)で焼失したとのことである。
それでも、客間はこんな感じである。当然、宿泊もできるのである。
それにしても、坂本竜馬が放った弾痕の後とかがある。焼失したのに、なぜあるのである。
その他にも、関口宏さんや水野真紀さん、武田鉄矢さん、NHK大河ドラマで土方役をやっていた俳優が訪れたという写真が貼ってあった。
ここから、少し下世話な話。この本物ではない寺田屋の入場料は500円である。仮に、1日300人訪れると単純計算で15万円である。 また、素泊まり6500円なので10人止まれば単純計算で6.5万円。見学客の料金と併せると、ざっくり20万円。1ヶ月30日で、600万円。1年で7200万円である。誰が経営しているのか知れないが、大もうけなのである。
そんな下世話な話は別として、33年で命を落とした幕末の志士に敬意を表さずには居られなかった。
最後に、京都伏見は酒蔵の町である。近くに、黄桜酒造と月桂冠酒造があり、そこにもお邪魔したので後に記すことにする。
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8月12日 日曜日、暑い一日だった。この日の夜はは息子と食事をした。
場所は、丸井百貨店のレストランである。丸井という百貨店は、鉄道写真家というかSL写真家がかって駅の傍で撮影した時には、偽名丸井好夫という名前で写真を掲載していたとおり、だいたい駅の傍にある百貨店なのである。
まあ、そんなことはどうでも良い。久しぶりに、息子に会ったのだが、その息子の風貌はまったく変わっていなかった。元気そうに学生生活を送っている様である。
本人とは、将来のことや学業のことなど話をした。最近大学では収賄で逮捕された先生もいたが、息子は共同通信社にどんな先生かインタビューされたらしい。
昔から、息子といると心が和むのであるが、息子はどうやらそんな親父がうっとうしいらしい。もう完全に自立しているし、私のDNAを受け継いでいるのかわからないが、鉄砲玉の様に結構行ったきりなのである。
お盆でも戻って来ない息子は、寂しいとかいうことからも無縁である様である。といううか、精神的にかなり強いのである。そんな息子をある意味誇らしく思う反面、もう少し親に頼って欲しいと思うこの頃である。
ところで、息子と食事をした後、鴨川沿いをあるいた。丁度、京の七夕が開催され多くの人たちで賑わっていた。流石に、節電のためLEDがかなり少なめだったがそれでも十分楽しめた。
なんど来ても、京都は飽きないし、新しい京都が発見できる。
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社会人になって4年間、首都圏にいて、この地方に戻ってきた。
久しぶりのこの地方は流石に懐かしかった。昔の友人からの誘いもあり、鳥羽に海女さんの写真でも撮影しに行こうということになった。東京では食えない美味しい刺身も食える旅館も予約しておくからとか言われて。
大学時代は、良く写真を撮影しに行く仲間だったので、一つ返事でOKした。
私にとっては、久しぶりに戻ったこの地方での写真撮影は、心地よかった。特に、海風が心地良くしてくれたのかもしれない。
夕日が暮れ、彼がいつも使う宿に到着し、美味しい刺身を腹一杯食べた。
一緒に、寝床に入り、これからの自分たちのことについて話をした。彼は、クルーザーや別荘の1軒ぐらいもてるぐらいの金持ちになれたらいいなあなんて話をしていた。
自分の漠然と、その話に相槌をうって眠りに入っていった。
とはいうものの、現在の自分は、到底そんな身分にはなっていないが・・・。 |
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5月3日 京都下賀茂神社の流鏑馬祭りに行ってきた。
この日は、うす曇の天気であった。息子の下宿で朝起きて、息子から最寄のケーヨーD2で物干竿を購入したいとのリクエストがあり、一緒にケーヨーD2まで行き物干竿を購入し運んできた。
結果として、今のものはアルミ製であるため、そんなに重くは無いため、十分一人で持ち運びできるではないか。親爺が来るまで、待っている必要もなかったみたいである。
そして、いつものホテル平安の森でランチを食べて午後から下賀茂神社の糾の森で行われる流鏑馬神事を見ることにした。
これが、また結構迫力がある。平安時代に始まったこの流鏑馬であるがそのころは日本人の体格もこんなに大きくなく、使用する馬もサラブレッドではなく木曽馬を使用していたと思われるがそれにしても神事というよりある意味競技といっても良いと思うぐらいスポーツ的な感動があった。
そして、流鏑馬が終了した後に息子と待ち合わせをして私の荷物を息子に下宿まで運んでもらい私は百万遍交差点近くの銭湯で一風呂浴びた。
理由は、妻から息子の下宿を極力汚さないように言われていたからである。
私が利用した銭湯は、昔ながらの風呂屋であったがBGMにビートルズの曲がかかり、ジョンレノンとオノヨーコのポスターが貼ってあった。更に、驚くべきことはマリリンモンローのポスターも貼ってあり、この銭湯とのあまりににもミスマッチに私を驚かせた。
息子と1日を過ぎせたGWの1日だった。 |



