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大韓帝国(19)


○ 韓国の開港(1)


前回のアレンの記録にもみられるように、大韓帝国時代には、それまでの開港場
に加えて、新たな開港場が次々と開かれました。
そこで、なぜこの時期に開港場の増設が必要だったのか、そして、それが何を
もたらしたのか、という点について、考えてみたいと思います。
まず、経済の側面から、この問題をみていきたいと思います。
参照する資料は、国史編纂委員会 「韓国史」 16 です。
今回は、趙璣濬著 「開港と国際貿易」を要約して紹介したいと思います。


1) 江華条約の経済的意義

19世紀始め、東洋に進出した西欧諸国は、インド、中国、及び東南アジア地域に
大きな関心を寄せ、韓国については深い関心を持っていなかった。
英国はインド経営と共に中国進出に全力をあげており、フランスはインドシナに
主眼を置いていた。
米国は自国内の中部、西部の開拓に腐心しており、東洋への進出は、一歩遅れ
をとっていた。
ロシアも近東を通る海路進出の拠点を作ることに全力を傾けていたため、韓国に
対して強い意欲を示すことはなかった。
19世紀初頭、ヨーロッパ大陸では産業革命を迎えており、当時、彼らの海外進出は、自国の産業革命のための資本調達が主目的で、貴金属と原料の獲得に大き
な関心を寄せていた。
この時期に韓国に立ち寄った西欧商人は、ほとんどが韓国の金鉱と、その他の
資源を調査することを主な目的としていた。
貴金属や資源という点から見れば、韓国は中国や東南アジア地域に比べて魅力
的な存在ではなかった。
西欧諸国のなかで最も早く産業革命を起こした英国でさえ、19世紀始めには彼ら
の近代工業製品は、自国内、及びヨーロッパ大陸内の市場があれば充分だった。
1830年代、英国の対中国貿易が逆調となり、これを挽回するために、インド産の
アヘンを中国へ大量に密輸出しなければならなかったという事情が、この時期の
英国資本主義の発展の仕方をよく説明している。
英国の近代商品が東洋諸国に販路を開拓しなければならないほど成長したのは、
1860年代以降のことである。
英国がそのような事情だったので、他の西欧諸国の事情は言うまでもない。
したがって19世紀始めの西欧諸国は、韓国には大きな関心を持っておらず、韓国
との通商を必要不可欠なものとは考えていなかったことが理解できる。
この時期に韓国に来て、通商を要求した西欧商人はほとんど全て中国、あるいは
東南アジア地域に常駐していた商人で、本国政府から韓国との通商を目的として
派遣されたものではなかった。
こうした国際情勢の下、韓国政府は、1870年の初めまでは、鎖国政策を堅持する
ことができた。
しかし、日本の韓国に対する関心は、西欧諸国よりも直接的で強いものだった。
日本の近代改革には、莫大な財政支出が必要だった。
明治政府は、行政・司法・立法の三府と、陸海軍、及び教育制度の改革を断行しな
ければならなかったため、政府自身が鉄道・電信・電話・鉱業、及び軍需工場の建
設などをおこなっていた。
それらの事業に必要とされる膨大な資本は、ほとんどすべて、国家の財政支出を
充当しなければならなかった。
このような明治政府の財政支出は、農民からの高額地税の徴収に始まり、二番目
には不換紙幣の発行、三番目には韓国、及び台湾侵略による略奪、四番目には
アメリカへの生糸の輸出に依存していた。
もちろん徳川幕府の末期には、一部の地域で商業資本が多少蓄積されることは
あったが、工業化が民間の主導で発展するほどには、民間資本の蓄積は進んで
いなかった。
しかし、当時の日本は、近代産業を育成するために、外国資本に依頼することは
しなかった。
このように、日本は民間の資本の蓄積もなく、外資にも依存せずに、近代改革、
及び産業建設を政府自らが担当することになったため、ひたすら自国の農民から
高額な地税を収奪するとともに、隣国の韓国を侵略することによって、その資本を
調達しようとしたのである。
日本の韓国侵略は、日本資本主義の確立の結果ではなく、それを成立させるため
の資本蓄積のための手段だった。
したがって、日本は維新政府を樹立するやいなや、韓国への侵略を強力に押し進
めた。
日本は、西欧から蒙った損失を、韓国、及び中国から取り返そうとしたのである。

日本政府は、「欧米諸国から圧力を受けたときの代償を、政治的にも経済的にも、
また心理的にも、朝鮮・中国の侵略によって得ようとした。木戸、伊藤など天皇政
権の初期・中期の最高首脳者の師であった吉田松陰は、1855年にアメリカおよび
ロシアとは和親條約がすでに締結されており、日本側からこれを破棄することは
できないので、取りやすい朝鮮・満洲および中国を征服し、アメリカ、ロシアから
蒙った貿易の損失を、朝鮮・満洲の領土を取得することによって補償しなければ
なければならないと論述した。 この思想は、彼の弟子たちの政府にそのまま引き
継がれた。」
「1868年1月に成立した天皇政権は、同年末にはすでに朝鮮征服を計画していた。
それ以来、日本の支配者は、これに関しては同じ目的を追求していた。」
(井上清著 「日本の「近代化」の特徴とその歴史的条件」 1965 新日本出版社)

高宗10年(1873年)、韓国政界に大きな変化が起きた。
大院君が政権から退いて、閔氏一派が執権を掌握することになったのである。
この時期に、国内の一部では、外国と国交を結んで新文化を早く受け入れ、国政
を改革しなければなければならないと主張する人々も多かった。
しかし、閔氏政権は新しい政策を持ちあわせておらず、また、大院君のような強力
な信念も持っていなかったので、対外政策については極めて消極的だった。
このような機会を利用して、日本はかなり前から念願としていた韓国侵略を達成
しようと、1875年に雲揚号事件」を起こし、これを口実に武力による圧力を加え、
1876年2月26日、「日朝修好條約」を締結することに成功した。
これがいわゆる「江華条約」で、韓国が近代の国際法上、外国と締結した初めての
通商條約となった。
前述したように、この条約は、日本の武力による圧力によって性急に締結された
ものだったが、当時の韓国政府は、国際法上の通商条約に対する深い知識もなく、
何の準備もしていなかったため、日本が提示した条文が、ほとんどそのまま条約
文となって締結されてしまった。
日本は、その開港時に、西欧諸国に強要された不平等条約を、そのまま、「朝日
修好條約」で再現しただけでなく、より不利な条件までも強要した。
こうして日本は、韓国侵略の第一歩を踏み出すことになった。
1876年2月26日に締結された韓日間の修好條規は全文12条となっていて、その
うち、経済に関する重要な条文は次のようなものだった。


以上のような内容の條項は、日本商人の韓国進出を容易にし、自由に自国商品
販売し、韓国の産物を購入できることを法的に保障することを目的としていた。
第7款の沿海の調査、及び海図の作成は、軍事的な目的だけでなく、今後の開港
候補地を物色しようという遠大な意図から計画されたものである。
日本は、江華条約に続き、その年8月24日には、「修好條規附録」と「貿易規則」を
締結した。
これらはそれぞれ十一の条項からなり、修好條規に規定されたことを実施するた
めに必要な細目を補完したものである。
そのなかの重要な条項を要約すると、次のようになる。

①今後、各港に駐留する日本国の人民・管理官は、朝鮮国沿海地方で日本国の
諸船が遭難して、緊急事態となったときには、地方官に報せ、その地方へ行くこと
ができる。(付録第1款)

②今後、釜山港においては、日本国の人民が通行できる道路の里程を、防波堤
から起算して東西南北各直径10里(朝鮮里法による)と定める。
東莱府中においては、里程外であっても往来することができる。
この里程内において、日本国の人民は自由に通行し、産物、及び日本国の産物
売買することができる。 (付録第4款)

③議定した朝鮮国の各港において、日本国の人民は、朝鮮国の人民を雇用する
ことができ、朝鮮国の人民は、その政府の許可を受ければ、日本国に往来しても
差し支えない。 (付録第5款)

④日本国の人民は、日本国の貨幣で朝鮮国の人民の所有物と交換することが
でき、朝鮮国の人民は、その交換した日本国の貨幣で、日本国所産のすべての
貨物を買い取ることができる。 (付録第7款)

⑤今後、朝鮮国諸港から糧米、及び雑穀を輸出入することができる。 (貿易規則
第6則)

⑥日本政府所属のすべての船舶は港税を納付しない。 (貿易規則第7則)

⑦朝鮮国政府もしくは人民が種々の物品を未開港の港に輸送したいときには、
日本国の商船を雇用することができる。
雇用主が人民の場合は、朝鮮政府の免状に準じて雇役する。 (貿易規則第8則)


以上の諸規定によって、日本人は、韓国の内陸地方を、事実上旅行することが
できるようになり、釜山と東莱は、日本商人の本拠地となり、日本人は韓国人を
自由に雇用して、日本へ連れていくこともできるようになった。
特に日本の貨幣が開港場で全面的に通用することになったため、日本の金融
機関が進出し、日本商人の商業活動を後押しした。
また、日本は韓国から食糧を搬出することができるようになり、日本船舶は低率
の港税で港を出入りしただけでなく、日本国政府に所属する船舶は、港税さえ
支払わずに出入りした。
結局、日本船舶の任用規定は、日本の運送業の韓国進出に道を開くことになった。
江華島條約とその附録および貿易規則は、1842年に英国が清国に強要して締結
した「南京條約」や、日本国自身が1854年に米国から強要された「日米和親條約」
を、韓国に対して強要した不平等條約の再演であった。
さらに日本政府は、江華条約に関税条項を盛り込まないことによって、近世の国際
間の通商条約史上、類例のない詐欺的な侵略条約を強要した。
この関税条項は、「韓米通商條約」の例に倣って、1883年7月25日に改正締結した
「日朝通商章程」、及び「海関規則」で初めて規定されることになった。
この江華条約にもとづいて釜山が開港し、釜山以外では、東海岸の元山港、西海
岸の仁川の開港が要求された。
韓国政府としては、元山は東海岸の玄関口であり、仁川は西海岸の要衝だった
ため、この二港の開港を頑強に拒否したが、日本は再び軍艦で威嚇して、彼らの
計画のとおり、1879年7月30日、元山港を開港する条約を議定調印させ、1882年
12月、仁川港の開港を一方的に決定し、通告した。
こうして日本は、韓国に通じる玄関口である釜山、仁川、元山を開港させ、政治的
にも経済的にも、韓国進出の第一歩を踏み出した。


2) 開港直後の日韓貿易

江華条約の締結後、しばらくのあいだ、日本が韓国との貿易を独占していた。
高宗19年(1882年)に、朝米、朝清通商條約が調印されるまでは、日本だけが
韓国の通商国だった。
しかし、この時期は韓国内の政治情勢も非常に流動的で、日本も、経済的関心
よりは、政治的な侵略に傾注していた。
当時の開港場も釜山港だけで、仁川と元山の開港はまだ実現していなかった。
このように、貿易の条件が十分ではなかった状況でも、この時期の日韓貿易は、
開港前の倭館貿易と比べて、貿易量でも貿易内容でも、大きな変化があった。
1873年から1875年までの輸出入の規模は、5万〜6万ウォン台で、この三年間は
毎年足踏み状態だったが、開港後は、毎年の貿易量が2倍〜3倍に増えた。
1875年と1881年を比較すれば、対日輸出は32倍、輸入は27倍に増加していた。
さらに注目されるのは貿易品の内容である。
開港後の日韓貿易では、西欧の商品が大量に韓国に流入した。
開港直後、日本から韓国に輸入される物品のなかで、日本の国内産は12%に
過ぎず、残りの88%は西欧産の工場製品であった。
開港後の日本は、韓国を相手に仲介貿易をしていたのである。
また、韓国に輸入された日本産の商品の内容を見ると、食料品は穀物と酒類、
織物類は、日本国内で手工業によって生産された絹織布と麻織布、金属類は
銅と亜鉛で、その他の雑品中、日本国内の生産品は陶器とマッチなどだった。
日本産として韓国に輸入された商品は、開港の前後で変化はなかった。
こうして見ると、日本は明治維新以後、近代工業の発展に全力を傾けていたも
のの、未だ基礎の段階に留まっていたことがわかる。
それにもかかわらず、日本が武力に訴えてまで江華条約を急いだのは、韓国の
領土を占領することと、日本の工業を発展させるための資本の蓄積を、韓国の
資源、特に貴金属を搬出することによって成し遂げようとしたという事実を知る
とができる。
日本の韓国への進出は、西欧の重商主義の海外膨張を手本としていた。
こうした観点から、日本の早期の征韓論の本質と、初期貿易関係における略奪
貿易の性格をみることができる。
次に、西欧の近代工場による商品が日本商人の仲介で流入した結果、韓国の
伝統社会の崩壊を促進したという事実を指摘せざるをえない。
開港前の北関貿易や倭館貿易では、近代工場製の商品は殆どなかったため、
何の変化もみられなかったが、開港後、韓国に流入した西欧工場製の商品は、
韓国人の生活様式や経済のしくみを根本的に変えることになった。


3) 韓清貿易の展開 (省略 )


4) 日清戦争後の日本人の商権確立

日清戦争以後、韓国の対外貿易は大きな変化を迎えることになる。
第一に、韓国との国際貿易において、清国の地位が再び劣勢に転落し、第二に、
日韓両国間の貿易額が急増し、第三に、露国がほかの西欧諸国とは違い、韓国
との貿易で次第に積極的な面をみせるようになった。
第一の変化は、日清戦争で清国が敗北したことに起因する。
この戦争のあと、韓国に対する清国の政治的影響力は一掃された。
すでに述べたとうり、壬午軍乱以後、清国の経済的進出が拡大したのは、政治的
影響力が強化されたことに起因するもので、それが弱まれば、貿易関係の変化が
生ずるのは極めて当然のことであった。
しかし、清国が対韓貿易において、日本との競争で劣勢となったもう一つの原因と
して、経済的な要因を考えざるをえない。
それは清国の工業化の不振である。
清国で近代工業が始まったのは1880年代からであるが、当時の清国は、国内外
で多くの問題を抱えていたので、日本の場合と同じように、急進的な発展は成し
遂げられなかった。
1890年代以後の日本の貿易品のなかには、既に自国生産の近代工業品が相当
な比率を占めていたが、清国は未だ仲介貿易から脱皮できていなかった。
日清戦争の後の韓国の国際貿易に表れた二つめの変化として、日韓貿易の急激
な増加があげられる。
これはもちろん日清戦争で日本が勝利したことに由来するものだったが、同時に、
日本の工業化によるものでもあった。
日本の工業化は、1880年代の国有企業の民間への払い下げが基礎として、工業
化に関わる資本の調達も、インフレ政策による農民からの収奪や、生糸の対米輸
出が大きな力となっていたが、より重要な資金源となった韓国に対する略奪貿易、
及び金塊の搬出や、日清戦争での台湾の占領と、賠償金2億300万ドルが大きな
役割を果たしていた。
その結果、日本の工業化は、1900年代初めから本格化して、日本の対韓貿易も、
この時期になって、仲介貿易から脱皮することができた。
1890年代以降、韓国の対日輸出が急激に増加しているが、これは日本が、自国
の工業化にともなう原料と食糧を韓国から輸入したためだった。
三つめとして、韓露貿易の増大も、この時期に表れた変化として注目に値する。
ロシア領沿海州を通じておこなわれた韓露貿易が公認されたのは、1888年6月25
日に締結された「韓露條約・韓露條約附則」が公布されてからである。
この条約に基づいて、最初に韓露貿易に着手したのはセベリヨプ商船会社だった。
この会社は、元山・釜山・仁川と日本の長崎、清国の山東半島の芝罘などの港口
を経由するウラジオストック-上海間の航路を開拓して、1891年から営業を始めた。
この路線には、ウラジミール号、ストレク号、ヨルサ号・タイク号などの汽船が就航し、韓露貿易も活発におこなわれた。
韓国の港に寄港する露国商船は、年平均20隻、ないし30隻だったが、多い時は
45隻にもなった。
こうして露国商船が韓国の港に寄港して貿易量が増大するにつれ、露国政府は
1894年から貿易官を配置し、政府は陸地貿易を掌握するために、慶興に管理官
を常駐させた。
露国汽船の寄港が多くなると、韓国に対する海運を独占していた日本郵船会社は、
運賃を4割3分も引き下げて、露国船舶の進出を防ごうとしたため、セベリヨプ会社
は一時苦境に陥ったが、露国政府の支援と清国商人の協力を得て、再び活気を
取り戻した。
韓露貿易で注目されるのは、両国間に公認されていた正規貿易よりも、禁止され
ていた港を往来する密貿易だった。
韓露貿易条約によれば、露国商人は、条約で指定された港以外には寄港できな
かったが、この規定は韓国商人に対しては何の制限もなかったので、韓国商人は
常にロシア領沿海州を航行して、頻繁に物貨の交易をおこなった。
当時、ロシア領沿海州を往来した韓国の帆船は45隻に達したといわれる。
この帆船は航海期の八ヶ月間、ウラジオストックまで往復6回にわたって往来して
いた。
寄港した港は、鏡城、漁大津、明川、吉州、端川、群仙、遮湖、新昌、新浦、西湖
など、主に咸鏡道の東海岸にあった。
韓露貿易は海路以外に、陸路でも頻繁におこなわれた。
陸路による韓露貿易の路線は三路あったが、第一路は海岸線に沿って豆満江に
達する道、第二路は河川に沿って慶興に達する道、第三路は満洲の琿春を経て
慶源に達する道だった。
この陸路貿易も、海上交易に劣らず重要なものだった。
韓露貿易で交易された物品を見ると、韓国から沿海州に輸出された商品は、牛・
馬・燕麦・粟・大豆・煙草などの農産物、魚類・魚卵・ナマコ・蟹・昆布などの海産
物で、露国から輸入された商品は、綿織物・鉄器・獣皮・石油・ろうそく・針・マッチ
などの雑貨だった。
当時、露国から輸入される工業製品は、大部分が英国製で、露国内の生産品は
10%にも満たなかった。
したがって、韓露貿易においても、露国は清国の場合と同じように、仲介貿易に
すぎなかった。
以上見てきたように、日清戦争後に韓露貿易が大きく発展したといっても、それは
露国が、ほかの西欧諸国に比べて韓国との貿易に比較的関心を持っていたという
だけで、当時の韓国の国際貿易総額のなかで、露国が占める比重は小さなものに
過ぎなかった。
それだけでなく、この韓露貿易は日露戦争後には急激に落ち込むことになった。
では、日清戦争以後、日本がどのようにして清国を押しのけ、韓国との国際貿易
で覇権を掌握したのだろうか。
まず、日清戦争の前年の1893年から、韓日合邦(日本の韓国併合)がおこなわれ
た1910年までの韓国の国際貿易を見ると、韓国の輸入額は、日清戦争後に日本
の占める割合が著しく大きくなったのに対して、清国は絶対額は増加したものの、
相対的には、明らかにその比率が減少した。
日清戦争のあと、清国の対韓貿易は貿易品目の内容が変わり、西欧商品の仲介
貿易が少なくなって、中国の国内生産品、すなわち手工業製品と特産品の交易が
増大した。
手工業製品のなかで最も重要な商品は、絹織物だった。
絹織物の生産は、19世紀末までは、日本でも機械化されておらず、西欧や日本が
生産した絹織物は、中国人や韓国人の好みには合わなかった。
しかし、中国の絹織物は韓国人の好みに合うように製造されていた。
中国では、製糸工程は機械化されていたが、織造工程は20世紀になってからも
手工業的な生産に依存していた。
それでも、20世紀初期の東洋諸国の絹織物の需要は、中国製品が独占していた。
中国が韓国内での政治的勢力を失ったあとも、中国商人は確固たる商圏を保って
いたが、これは中国商人が特殊な商品分野で活路を切り開いていたからである。
日本は韓国からの輸入が飛びぬけて高かったが、これは自国の資本主義の発展
のために、多くの原料と食糧を韓国から調達したためである。
一方、清国は、韓国からの輸入が依然として少なかったが、これは、清国自身が
まだ農業国だったからである。
韓国の対外貿易は、1894年を境に激増した。
そこには、韓国内の経済構造の変化という内部的な要因があり、また日本の経済
進出の強化という外部的な要因もあった。
韓国内の経済構造の変化というのは、農村の自給自足的な経済構造が崩壊して、農村経済の市場への依存度が大きくなったということである。
開港以来、西欧の製品が多量に輸入されることにより、これらの商品は農村にも
流入し、農村の自給自足経済が徐々に廃れ始め、従来は家内生産の物品で日常
の需要のほとんどをまかなっていたが、それが新しい機械製品に変わったことで、
農村の家内工業は崩壊した。
1900年代初めの韓国の対外貿易の品目を見ると、米穀・大豆・大麦・小麦・粟・
胡麻・人参・葉煙草・綿花・生糸などの農産物、鮮魚・乾魚・鹹魚(塩漬けの魚)・
カキ・フカヒレ・ナマコ・昆布・アワビ・肥料用乾魚などの海産物、生牛・牛骨・牛皮
などの家畜生産物、その他、毛皮、 鉱物、特に金・砂金、綿布・麻布・筵(むしろ)・
木材などで、そのうち米穀・大豆が最も多く、輸出総額の70%以上を占めていた。
一方、韓国に輸入される品目も種類が多くなり、綿布・綿製品・綿糸・精製綿・毛
織物などの織物類、銅・亜鉛・鉄・スズ・洋銀・水銀などの鉱物、石油・石炭・木炭
などの燃料、醤油・砂糖・清酒・ビール・塩・タバコなどの食物、洋紙・筆記用紙・
濃紙などの紙類、針金・レール・鉄管・鉄鋌・釜・鉄道機関車、及び部品、電線・
電話用部品などの金属製品、 その他、染料・薬品・硝子・陶磁器・板材など日常
生活の必需品のほとんど全てにわたっていて、なかでも多かったのは織物類で、
全体輸入額の60%以上を占めていた。
このように、各種の農民生産物が商品化され、対外輸出品となったが、その反面、各種の近代工場製品が輸入され、農民の日常生活の必需品となっていった。
こうして開港後、三十年余りが経過する間に、韓国の社会経済は大きく変化して
いった。


                                        (つづく)




参考資料

国史編纂委員会 「韓国史」 16 
近代-開化斥邪運動
Ⅶ.開港後の国内経済 1.商業・貿易 (1)開港と国際貿易
(趙璣濬著)


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