全体表示

[ リスト ]

大韓帝国(20)


○ 韓国の開港 (2)


前回に続いて、国史編纂委員会 「韓国史」 16から、(2) 開港場に進出した外国人
商社(趙璣濬著) を紹介したいと思います。


1) 釜山港の日本人商社

江華条約が締結され、最初に開港した港は釜山だった。
釜山が初めて開港地になったのには、相応の理由があった。
釜山には江華条約が締結される以前から、既に多数の日本商人が上陸し、釜山
草梁に専管居留地域の許諾を受けて商館を設置し、商業に従事していた。
これが「草梁倭館」と呼ばれるもので、この草梁倭舘は大院君の鎖国政策下でも
閉鎖されずに存続した唯一の外国人居留地だった。
ただし、当時の草梁の倭館貿易は、朝鮮初期以来、我国との貿易で長い伝統を
持っている日本の対馬島城主に許されていたもので、日本政府を相手としたもの
ではなかった。
江華条約にもとづき、草梁倭舘に日本公館が設置され、招待管理官として近藤
真鋤が任命されて赴任したのが、1876年11月12日だった。
ここから釜山の開港が、事実上始まった。
釜山港が法律上開港した日は、釜山港租界條約が締結された1877年1月30日
とする見解がある。(釜山略史、1965年)
開港当時、釜山に居留していた日本人は40戸、人口80名余りで、公舘官吏と
雑職者12人を除いて、みな商人だった。
これらの日本商人のなかには、東京の巨商である三井組(釜山代表永田基七)、
小錦組(釜山代表行岡増兵衛)を始めとして、大池忠助、大倉喜八郎、開港数年
後には迫間房太郎、香椎源太郎など、壮々たる実業家が名を連ねていた。
三井組と小錦組は、各種物品の貿易商で、「組」は当時合資会社の性格を持つ
一種の商社だった。
「組」の名称を持つ日本の商社は、開港当時の仁川やソウルでも見られた。
大池忠助は対馬出身の商人で、1875年に釜山に来て、海産物貿易に従事する
一方、雑貨屋と精米工場を経営していた。
大倉喜八郎は、当時すでに日本でも名のある実業家として開港直後に来釜し、
渋沢栄一との合資で資本金5万ウォンの私設銀行である第一銀行を創立した。
この私設第一銀行は、韓国に上陸した最初の日本の金融機関で、1878年に
日本の国立第一銀行に吸収されて国立第一銀行釜山支店となり、韓国植民
地化の旗手として悪名をはせた。
迫間房太郎は和歌山県出身で、1880年に大阪五百井商店・釜山支店長として
来釜していたが、彼は私企業の貿易商を経営し、釜山一帯の土地買い入れて、
巨万の富を得た人物だった。
香椎源太郎は福岡県出身で、彼が釜山に来たのは1881年だった。
彼は伊藤博文の紹介で、我国の皇室から漁業権を獲得し、韓末の水産業界に
初めて進出した人物だった。
また、1885年には「日本郵船株式会社」が進出して釜山出張所を開設し、1890
年には「大阪商船株式会社」が支店を設置した。
前者は資本金2,200万ウォン、後者は1,650万ウォンで、日本では二大商船会社
といわれていた。
このような大商船会社の釜山進出によって、韓国の国際貿易はもちろん、沿岸
輸送まで独占して掌握されることになった。
このように、韓国初の開港地となった釜山では、日本商人の進出が顕著だった。
開港20年後の1899年には、釜山に居留する日本商人の総数は949人に達した。
開港当時の60人余りと比べると、実に15倍以上に増えていた。
開港地の釜山には、日本商人以外の外国の商人はあまり進出しなかった。
1897年の統計によれば、釜山に進出した外国商社は156社で、そのうち日本の
商社が132社、清国の商社が14社で、他の商社は一つもなかった。
こうして釜山の貿易と商圏は日本商人が独占することになり、この傾向は日清
戦争後、さらに強くなった。
日清戦後、一部の清商(清国商人)が撤退して、日商(日本商人)が激増した。
彼らは釜山を拠点にして、慶南一帯で商圏を拡げていった。


2) 仁川港の外国人商社

仁川が開港したのは1883年だった。
開港日については諸説ある。
1933年に編纂された仁川府史では、仁川開港を1883年1月1日としているが、
1927年に発行された朝鮮史講座には、同年6月に仁川が開港したと書かれて
いる。
仁川府史が1883年1月1日とする根拠は、仁川駐在日本領事の近藤真鋤(開港
当時の釜山管理官)が本国外務大輔(外務卿の次席)に送った書簡に、「仁川
港は本年(83年) 1月1日から邦国人が渡航して貿易することになったので、商民
が渡航できるようになる」と書いていること、朝鮮史講座で6月に仁川が開港した
としたのは、日本商民が実際に仁川に進出したのが6月以降だったという事実
に基づいている。
本来、仁川を開港することについては、韓国政府と日本政府の間で、長い間、
議論があった。
釜山の開港は、江華条約第4條に、開港名が明確に指定されているので、別に
問題はなかったが、仁川と元山の開港は、同條約第4条と第5条に同條約締結
から起算して20ヶ月後に、京畿・忠清・全羅・慶尚・咸鏡五道の沿海中、通商に
便利な港二ヶ所を選んで、地名を指定すると規定されていたので、この二つの
港は、当然、開港当事国である韓国政府が選定できるものであり、百歩譲った
としても、両国政府の合意の下に開港地が指定されなければならない。
しかし、これについては、両国間の利害の衝突があり、なかなか合意を見ること
ができず、日本は、再び武力によって仁川開港を実現させてしまった。
日本政府は江華条約以降、韓国沿岸の調査測量を実施して、この二つの開港
地は仁川と元山でなければなければならないと主張した。
韓国政府としては、仁川は首都の喉元に当たる場所なので、極力避けて、西海
岸では忠清道牙山湾、あるいは全羅道群山港のうちの一つを取り、東海岸では
咸鏡道北青を開港することとした。
このように、両国政府の主張が噛み合わず、二つの港の開港は自然と遅れる
ことになった。
仁川の開港に反対する我国政府の態度は非常に強硬で、また、国民も「雲揚
号事件」のときの日本の暴挙を想起し、ソウルの喉元にあたる仁川を開港する
ことについては、世論をあげてこれに反対した。
1881年2月10日、駐韓日本公使の花房義質が外務卿の井上馨に送った書簡で、
「三南の有志数千名が謀議し、仁川の開港の不可を建議しようと、1月20日頃
(陽2月18日頃)までに京城に来るという内報があったので、人心をなだめること
が急務です」と報告したことから見ても、当時の韓国民の反対運動の激しさが
わかる。
しかし、日本は江華条約の締結のときと同じように、力ずくで仁川の開港を断行
しようと目論み、1882年に、仁川開港準備委員会というものを組織して、仁川に
日本領事館の建物を新築する一方、同年4月には、ソウルの日本公使館書記官
だった近藤真鋤を仁川領事に任命し、仁川開港のための準備を担当させた。
1882年7月に壬午軍乱が起こったとき、日本はただちに韓国政府の劣勢を利用
して、韓国への侵略を強化するための措置として、同年7月23日、「済物浦條約」、
同年8月30日に、「朝日修好條約続約」を強要した。
日本の軍隊がソウルの日本公使館に駐在することになったのは、「済物浦條約」
の第5条の規定によって実現されたものである。
また、仁川と元山の開港を既定事実として認めさせ、さらにソウルの開市を決め
たのも、この「朝日修好條約続約」第一条の規定に依るものだった。
こうして仁川の開港地指定が既成事実化され、日本に残っていた問題は、その
日付けを決めることだけだった。
そして、仁川領事の近藤は、開港の準備が整ったことを確認し、1883年1月1日
から仁川が開港するという一方的な通告をするに至った。
仁川の開港は、このような不法な通告によって実現されたものである。
しかし、韓国は1882年5月に、米国と通商條約を締結し、同年8月には清国とも
朝清商民水陸貿易章程を調印し、その後、西欧の各国ともそれぞれ通商条約
を締結した。
したがって、1883年に開港した仁川は、通商条約の互恵原則によって、自然と
これらの国々にも開放せざるを得なかった。
こうして仁川は、開港と同時に国際港としての性格を持つことになったのである。
仁川が開港したあと、最初に進出した日本商船は、「大阪協同社」所属の汽船
鎮西丸、及び同社所属の帆船第二同福丸、日本海軍所属の宿弥丸の三隻で、
これらの船舶は、商人7、8名、職人・人夫7、8名、及び商品を積載して、1883年
4月13日に仁川に入港した。
以来、日商の進出が始まり、同年末には仁川の日本人居留地で商店を開設
した商人は21名に達した。
この初期の上陸者を業種別に見ると、運輸業の慶田利吉など6人、貿易業の土
肥福三郎など3人、米穀商の田中佐七郎など4人、雑貨屋の樋口平店など2人、
その他、旅館業、料理業者などの6人だった。
彼らは韓屋を賃貸して営業を始めたが、初期に上陸した日商の活動は、活気の
あるものではなかった。
しかし、1884年に入ると、日商の進出が激増し、営業も活気を帯びた。
1883年11月に、日本の第一銀行が出張所を開設したのを始めとして、1890年
10月には第十八銀行の支店、1892年には第五十八銀行の支店が設立され、
これらの銀行は地金の買入れや米穀を集める資金を日商に貸付けて、日商の
商業活動を支援した。
また、日本の二大商船会社である大阪商船株式会社と日本郵船株式会社は、
日清戦争後は、仁川に支店を開設することによって、仁川港での輸出入商品を
事実上、独占輸送していた。
このように、金融機関と運送会社の支援を受けた日本人商社は、次第に仁川の
商界で確固たる地盤を構築するに至った。
また、仁川の日商は、1891年9月に、仁川港貿易商組合を結成して相互協力を
企て、1896年4月29日には鶏林奨業団という行商団体を組織して、仁川を中心
としての地方都邑への進出に乗り出した。
もともと、初期に来た日商は、粗悪な商品を高値で販売し、また地方民に対する
傲慢と不遜な行いによって人心を失っていたので、地方民からの排斥が激しく、
行商には行き詰まりを感じていた。
そこで、彼らは組織的な行商を試みようと、鶴林奨業団という団体を組織した。
この団体は、結成当初は、仁川商人219人で組織され、その後、各地に支部を
置いて団員を増やし、1898年には、本部、及び支部の団員が1,380人に達した。
彼らは、「日本の軍服に似た団服制を実施して、凶器を携帯し、ひとたび事が起
これば、役員の指揮の下に正当防衛の名を借りて暴行に及び、平時でも、時々
団員を集めて示威運動をするなど、一種の暴力団体となった。」、そればかりか、
「奥地を巡回して、詐欺的な方法で貧民の銭品を奪うといった無礼な輩が大半を
占めていた。」と、日本人が記録のなかで述懐しているほどで、その非道な行い
がどれほど酷いものだったか、充分に察することができる。
こうして彼らの理不尽な振る舞いが激しくなると、我国の政府と国民からの反発
を招き、1898年、とうとう解散することになった。
日露戦争と前後して、日本の大商社の進出が激増するにつれ、仁川の商権は
次第に日商の掌中に入った。
1907年当時、仁川に進出していた日本人商社は、株式会社が7社、合資会社が
12社で、その他に地方に本社を持っている会社で、仁川に支店あるいは出張所
を置く会社が9社あった。
清商の進出も、仁川の開港と同時に始まった。
1880年代の初め、清国のジャンク船が頻繁に仁川に来航し、それとともに清商
の定着も日増しに増加していった。
特に、1888年から、上海の商業汽船株式会社 ( China Merchants Steam  Navi
gation Company) が、上海・芝罘・仁川・牛荘・上海の廻航路線を開拓し、年に
20回も往来するようになると、清商の仁川進出が激増して、日商との競争も激し
くなった。
清商は、上海で輸入した西欧産の綿織物と、国内の手工業生産による絹織物を
持ちこみ、韓国からは、米穀と牛皮などを輸出した。
清商は商売をするにあたって信義を守り、傲慢で不遜な点もなく、韓国商人にも、
一般の顧客にも好感を与えた。
これは日本商人の詐欺的な取り引きや、鶏林奨業団のような悪行と比べると、
極めて対照的だった。
日清戦争後、清商はいっとき勢いがなくなり、閉店して帰国することもあったが、
再び到来して商勢を回復することができたのは、商人としての姿勢が日商よりも
はるかに良かったためだった。
1900年代初めに仁川で活躍した清商のなかで、比較的大きな商社だったのは、
源生東、和聚公、東昌興、仁来盛、永来盛、徳順福、西公順、同盛合、双盛泰、
泰盛東、錦成東、義順東などで、なかでも永来盛、徳順福、双盛泰、西公順は
巨商とされていた。
これらの清商の大部分は、山東省出身だった。
一方、仁川港は、釜山港の場合とは違って、開港と同時に国際港の姿となった。
仁川港は、ソウルへの玄関口だったので、外国船舶の寄港が多かった。
上海、及び日本へ航行する西欧の商船は、ほとんどみな仁川に寄港したので、
西欧の商人もいち早く仁川に進出することになった。
そのため、仁川は西欧人が進出して商社を設立した韓国最初の港となった。
仁川に進出した最初の西欧人の商社は、ドイツ人の「世昌洋行」で、その後、
英国系の「怡和洋行」と、米国系の「陀雲仙洋行」が後に続いた。
世昌洋行は、仁川が開港した1883年に、ドイツ・ハンブルグの商人エドワード・
マイヤー(Heinrich Constantin Edward Meyer)が設立した貿易商社で、英語の
商号はMeyer &.Co.といった。
この商社は、仁川に進出した最初の西欧人の会社だったので、開港直後の韓
国との貿易で大きな活躍をした。
彼は韓国から紅蔘と地金などを輸出し、綿布、銃器、及び印刷機械などを輸入
した。
我国の政府は、世昌洋行に対して多くの便宜を図り、高宗23年(1886年)には、
この会社から政府需用銀二万ポンドを借りたり、税米の輸送のために、同社の
所属船舶を雇用したこともあった。
世昌洋行は、仁川-上海間の定期航路を開いて、我国の政府から紅蔘の独占
輸出を計画したことがあったが、紅蔘の独占権は、清商にとっては大きな打撃
になることから、漢城駐在の清国の使臣だった袁世凱の抗議で、成功を収める
ことはできなかった。
また、この会社は貿易のほかに、韓国の殷山鉱山の開発と、南海、済州島での
採鰒(アワビ)の許可を申し込んだことがあったが、政府は凶作によって物価が
高騰しているときに外国人に採掘を許可すれば、国擾を招く恐れがあるとして
許可せず、アワビの採取は、前年に米国のニューウェル会社がアワビを採ると
いって、真珠を掘採した前例があるので、許可できないとして断った。
しかし、世昌洋行は貿易では成功を収め、仁川を拠点に上海・香港・天津にまで
拠点を拡張した。
世昌洋行と前後して仁川に進出した西欧の商社は、英国商船会社の怡和洋行
(Gardine Matheson &.Co.)だった。
怡和洋行は上海に東洋進出の本拠地を置いていたが、1883年に仁川に出張所
を開設し、牛皮貿易に従事していた。
この会社は、1884年に我国の政府と協約を結んで、上海から長崎・釜山を経由
して仁川に至る定期航路を開設し、貨物の運送を担当したが、収支が合わず、
営業は振るわなかった。
怡和洋行の仁川出張所は、貿易よりも鉱山採掘に大きな関心を持っていたが、
この方面でも良い結果をおさめることができず、1884年12月15日で仁川出張所
を閉鎖してしまった。
英国系の会社として仁川に進出したのは、このほかに広昌洋行(Bennet &.Co.)
と咸陵加洋行(Homle Ringer &.Co.)があった。
広昌洋行は、1902年に英国人ベンネット(W.G. Bennet)が日本人の顛原修一郎
と合資して組織された貿易会社だったが、その後、日本人が退いたので、ベン
ネットの個人経営となって、名称も広昌洋行と改称した。
この会社は上海から輸入された英国製の綿織物を仁川に輸出して販売してい
たが、営業的には好成績を収めることができなかった。
仁川に進出した英国系の会社のなかで、比較的活発な活動をしていたのは、
咸陵加商社であった。
この会社は日本の長崎に拠点を置いていた貿易商社で、1896年、仁川に出張
所を開設した。
韓国には麦粉・砂糖・銃砲・綿織物を輸入したが、ロシア系の東保汽船会社の
代理店を引き受けて、韓国産の米穀をウラジオストクへ輸出していた。
本来、韓国米のロシアへの輸出は清国商人が引き受けてきたが、咸陵加商社
が進出すると、清商はもちろん、韓国産の米穀輸出に従事していた日本商人も
大きな打撃を蒙った。
また、咸陵加商社は、香港・上海銀行の代理店を兼ねていて、手形の決裁など、
有利な支援を受けていたため、仁川の貿易界で確固たる地盤を持っていた。
米国人の商社として開港後の仁川で活躍した会社は、陀雲仙商会(Messrs
Townsend &.Co.)だった。
この商社は、1885年に仁川に設立され、船舶・火薬などの輸入販売に従事して
いた。
韓末に我国の政府や民間会社が購入した汽船や、鉱山、軍で使われる火薬は
この商社の斡旋によるものだった。
また、陀雲仙商会は、仁川に火薬製造工場を建設し、平壌の原鉱の採掘許可
を受けようとして、我国の政府と折衝したこともあった。
また、上海の英国商社の代理店を兼ね、上海から輸入した英国商品の販売業
にも従事していた。
仁川の商界では、基礎がしっかりした西欧商社のひとつとなっていた。
以上、見てきたように、仁川港は釜山港の場合とは違って、開港直後から日商
と清商の他にも、西欧人の商社が進出して、外国商社間の競争が激しかった。
日露戦争の前に、仁川に進出した西欧の商社、及び商人を調査したハミルトン
の記録を見ると、次のようになっていた。
商館数と(商人数)
英国 1(29)、米国  2(8)、 フランス 1(6)、 ドイツ 1 (16)、イタリア 1(16)、
ロシア 2 (4)、 ギリシャ 1 (2)、ポルトガル 1 (7)、ハンガリー (5)、デンマーク (2)
合計 10  (95)
しかし、国際貿易港としての仁川に西欧の商社や商人が多数進出したとはいう
ものの、その大部分は上海などに本拠地を持つ商社の出張所であり、日露戦争
以降は、次第に商権も日商と清商に奪われることになって、営業が振るわずに
撤収する商社が続出した。


3) ソウルに進出した日商と清商

ソウルの開市は、1882年8月30日に締結された「朝日修好條約続約」による。
この条約の第1条第2項には、「今後1年を期して楊花津を開市場とする」とあり、
これがソウルを開市とする法的な根拠となった。
しかし、実際には、日本商人は、この条約が締結される以前からソウルに進出
していた。
ソウルに日本公使館が設置されて、初代弁理公使の花房義質が赴任したのは
1880年12月17日であった。
ソウルで初めての外国公館だった日本公使館は、はじめは西大門外の清水館
にあった。
このとき、花房公使に随行していた人員は、武官二名と書生一人で、一般商人
はまだソウルには現れていなかった。
しかし、1882(※1885)年に日本公使館が倭城台(※南山の山麓)に移転し、
公使館の職員が三十人余りに達しただけでなく、公使館所属の日本軍約200人
余りがソウルに駐留することになった。
このように多数の日本軍がソウルに駐留することになったのは、壬午軍乱後に、
日本の強要によって締結された「済物浦條約」第5条に基づいていた。
こうして、多数の日本人がソウルに常駐するのに伴って、物品の調達を理由に
商人が入京するようになった。
このころソウルに来た日本商人は、協同商会(代表仁川石動)、大倉組(代表岩
楯林)、慶田組(代表亀谷愛助)等、十人余りだった。
しかし、当時ソウルに来た日本商人たちは、まだ韓国の一般人を相手に商売を
始めることはできなかった。
ただ、当時の韓国政府の要請で、貨幣鋳造用の銅を日本から輸入していただけ
だった。
多数の日本の商人がソウルに進出して、南山の山麓に居住し、韓国人を相手に
取り引きを始めたのは、1885年以降だった。
韓国政府が「済物浦條約」によって、日本商人に開市を許諾したのは揚花津で、
その後、開市場は龍山に移されたが、日本商人は開市場には集まらず、南山
山麓のチンゴゲ(진고개:現在の忠武路2街)に好んで住み着いた。
チンゴゲ(泥峴)は日本公使館があった倭城台に近くて便利だったので、そこに
日本の官民が集まって住んだのである。
1887年当時のチンゴゲに商店を設立し、そこの日本居留民や韓国人を相手に
営業していた日本商店は50店舗ほどで、営業種目別に見ると、西洋綿織布の
商店が10店舗余り、雑貨屋が10店舗余り、薬種商が5店舗、菓子店が10店舗、
質屋が10店舗余りで、この他に濱田商会、掘口商会、協同商会などの貿易商
が数店舗あった。
彼らは1887年2月、経商業議会を組織し、ソウルの商界で勢力の拡張を図った。
しかし、概して当時のソウルでの日商の活躍は、さほど活発とは言えなかった。
その主な原因は、これらの初期の商人たちは、一攫千金を夢見て来た人々で、
商取引が姑息で、信義を失ってしまい、また、日本の侵略主義に対する韓国の
民衆の反発が日商の排斥にまで及んだためだった。
日本商人がソウルで確固たる商権を掌握するようになったのは、日清戦争以降
である。
このように、初期のソウル商界での日本商人の営業が振るわなかったのとは
対照的に、清国商人の活動は活発だった。
清商がソウルに進出したのは、1882年以降で、彼らは水標橋と南大門一帯に
陣取り、1885年頃には、既に300店舗余りを数え、断然、日商を圧倒していた。
清商は、上海・香港・天津などから輸入された西洋綿織物、及び雑貨、中国産
の絹布、及び漢方薬材などを輸入販売し、韓国からは、高麗人参・穀物・牛皮・
海産物などを輸出していた。
ソウルの清商は、高宗21年(1884年) 5月、ソウル南部の会賢坊駱洞の李範祖
兄弟の家屋を購入して、ここに清商の中華会館を設立した。
これは清商の商業会議所だった。
これらの清商が、日商よりもソウル商界で繁栄を成し遂げたのは、当時の韓国
政府に対する清国の政治的影響力が大きかったという点もあったが、より重要
な原因は、彼らには商業上の信義があって、日商のように傲慢不遜ではなかっ
たため、韓国人が好感を持っていたためだといわれている。
当時、ソウルに進出した清商のなかには、同順泰、慶大号、錦成東記、双和東
記、公和順などの巨商がおり、水標橋と南大門北側の一帯には、30社余りの
商社が立ち並ぶように店を開き、一部の商社はソウルの伝統的な商店街だった
鍾路にまで進出した。
清商のなかでも、同順泰は、巨額の資本を持つ貿易商として、清商の代表的な
存在で、清国産の絹織物を販売する韓国人商店との取り引きも頻繁におこなっ
ていた。
同順泰は韓国政府にも信用があり、この商社は我国の政府に対して財政資金
を融通したこともあった。
高宗29年(1892年) 10月、我国の政府の「轉運衙門」が清商の同順泰から二度
にわたって銀20万両を借用した。
その利子は月6厘だった。
同順泰は韓国商人からの信用が厚く、光武7年(1903)には、紙幣のような形を
した私造票を発行して通用させ、物議をかもしたことがあった。
同順泰の貨票は、光武6年に、日本の第一銀行が釜山で銀行券を発行したもの
を真似たものだったが、当時の我国の政府は、商民を眩惑させるという理由で
直ちに中止させ、既に流通していた貨票は、駐韓清国公使に要請して、現行の
貨幣に交換することにした。
清国商人がソウルで比較的活発な商業活動をすることができた原因のひとつは、
彼らが京仁間の貨物運送を担当する汽船会社と馬車会社を設立していたという
点があげられる。
この会社は、在韓清国官民の出資で設立され、汽船は、仁川、麻浦. 龍山間を
運行し、馬車は京仁間の陸路を往来した。
この馬車は、北京や奉天でよく使われていた丈夫なものを輸入し、その数は40
台余りに達したという。
しかし、日清戦争後、ソウル商界で清商と日商が占めていた地位は逆転した。
日清戦争の戦況が日本に有利に展開すると、多数の清商は、ただちに閉店し、
帰国した。
反面、日本商人のソウルへの進出が急激に増加した。
この時期にソウルに進出した日商は、初期の渡来者とは違って、ソウルに定着
しようとする者が多く、彼らはチンゴゲ一帯に日本式の店舗を新築して、永久に
滞留するような構えをみせていた。
また、この頃に到来した日本商社のなかには巨商が多く、彼らは南大門から
チンゴゲの入口に至る地域に根をおろして貿易業に従事していた。
こうしてソウルの商街には、この時期に、三つの中心地ができた。
鍾路を中心とした伝統的な韓国人の市廛街、チンゴゲから南大門に至る日本人
の商街、そして小公洞一帯の清国人の商街である。


                                          (つづく)



参考資料

国史編纂委員会 「韓国史」 16 
近代-開化斥邪運動
Ⅶ.開港後の国内経済 1.商業・貿易 (2)開港場に進出した外国人商社
(趙璣濬著)



閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事