わたぼうし

物語・・・・・四国霊場百八ケ寺

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昭和42年以来、皇太子殿下によるお手入れ(全国植樹祭において天皇陛下のお手植え・お手播きにより成長した木の枝打ち等)や、全国各地からの参加者による育樹活動を通じて国民の森林に対する愛情を培うことを目的に毎年開催されています。本年度は、第32回全国育樹祭は「育てよう 緑あふれる 日本の未来」をテーマに愛媛県で10月25・26日に開催されました。
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イチョウは曹洞宗の専門僧堂の瑞応寺境内にある、目通り8.5m、根廻り14m、中央の大主幹を囲んで4本の幹が並行して一体となっている。
そして枝張りは南北に20m、東西に18m、樹高さ25m、推定樹齢800年という雌株の巨木である。愛媛県の天然記念物に指定されている


瑞応寺は、文安5年生子山城主松木越前守景村公の建立によるものであるが、天正13年の約に生子山城落城の兵火にかかり戦後再建されたが、また文政11年焼失の厄にあっている。明治30年曹洞宗専門僧堂解説、禅門修行の名刹として世に知られるにいたった。
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「近代遺産」という言葉になじみのない人が多いとおもいます。「遺産」と聞くと「世界遺産」を連想する人が多いにちがいありません。

私たちに身近なダム・トンネルの土木施設、駅舎や工場の建物が文化財として考えられるようになりました。生活環境や生活文化育み、近代の構造物や土地にとけ込んだ歴史を通して、孫とおじいちゃん・おばあちゃんの共通の話題にもなるものです。

1993年に国の重要文化財にあらたにもうけられた種別です。



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別子銅山の端出場水力発電所は、その高さ560.61mは竣工当時東予一の有効落差といわれた。明治後期、大量出鉱体制に移行しつつあった別子銅山は、電力の増強に迫られていた。しかし、火力発電は発電原価が高く、水力発電は吉野川上流の水利権利確保が難しく、吉野川下流の川口発電所を計画したが、約60kmに及ぶ送電線の架設にと莫大な費用を必要とした。


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そこで目をつけたのが、銅山の山並みと別子山の銅山川の水を第三通洞を利用して水路で端出場の石ケ山丈(海抜750m)まで引き込み、煉瓦造りの水槽を設けたのです。

端出場発電所は、昭和48年、別子銅山お閉山にともない廃止された。しかし美しい煉瓦造りの建屋は現在も別子の山並みのなかに姿を残しています。

第五十番 繁多寺

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寺伝によると、孝謙天皇の勅願により、天平勝宝年間(七四九〜七五六)に僧行基が開創したという。このとき、天皇から数流の旗を賜ったので「旗多寺」から「繁多寺と呼ばれるようになり「畑寺」の地名も生まれたという。
「一遍聖絵」によると、正応元(一二八八)年、一遍上人が、最後の遊行に出る前に大宝寺や岩屋寺を巡行して当寺に三日間参籠し、そのとき、亡父如仏の追善のため三部経を奉納した。
応仁元(一三九四)年、後小松天皇の綸旨を受けて京都の泉湧寺から、当山七世住職となる快翁宗師が下向し、以後多くの高僧が来住とにとした。盛時には末院が一二〇か寺に及んだという。
当寺の梵鐘は元禄九(一六九六)年の銘があり、あらゆる階層の人々百人の寄進によって造られた寺宝である。また、徳川将軍家綱の念持仏であったという大聖歓喜天を嬉紀っている。

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略縁起・・・天長五年弘法大師の開創であります。大師は箸蔵山頂の不思議な端気に導かれ、ここに登られました。大師はここで金比羅大権現に巡り合われ、「箸を拳ぐる者、我誓ってこれを救わん」という「済世利民」のご神託を授けられたと伝えられています。神託を得られた弘法大師は自ら金比羅大権現のご神体を刻まれれご本尊とされ、七堂伽藍を建立せられて当山を開創されたのです。亦不動王は、本尊を守護する仏として本堂にお祀りされている木像立像と他に本殿広場にも海運厄除の石像立像並びに二童子と五大明王が祀られています。

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第四十一番 龍光寺

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寺伝によれば、大同二年二月初午の日、弘法大師がこの地へ巡礼したら、みなれぬ白髪の老翁が現れ「我この地に住し、法教を守護し、諸民を利益せん」といって姿を消してしまった。
大師はこの地が霊場であることを悟り、その尊像を刻み、堂宇を建てて尊像を安置し、稲荷山龍光寺と号し、四国霊場の総鎮守とされた。
その後人々から稲荷寺として信仰され、寺は維持されるが、明治の廃仏毀釈で旧本堂は稲荷神社となり、これまで稲荷の本地仏であった十一面観世音が本尊となり、脇仏の不動明王と毘沙門天はその後建てられた本堂に安置され稲荷明神も本堂内にまつられている。


稲荷明神の根源をたずねてみると、もとは稲を象徴する神で農耕的な性格をもっていたが、真言密教と習合し、東寺の建設に関連して東寺の鎮守神となってからは、弘法大師と老翁の伝説も生まれ、やがて密教呪術と中国大陸から渡来した狐信仰が結合し、稲荷神とキツネの関係ができ、キツネは稲荷の使わしめから、稲荷そのものとみられるようになるのです。

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