わたぼうし

物語・・・・・四国霊場百八ケ寺

城郭

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全1ページ

[1]

宇和島城

イメージ 1
宇和島城の沿革      戦国時代高串道兎城主の家藤監物が、天文十五年(一五四六)板島丸串城にはいったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。その後、天正三年(一五七五)西園寺宣久の居城となったが、同十三年(一五八五)には伊予の国が小早川隆景の所領となり持田右京が城代となった。その後、同一五年(一五八七)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左右衛門が城代となった。
 文禄四年(一五九五)藤堂高虎が宇和郡七万石に封じられ、その本城として慶長元年(一五九六)築城工事を起こし、城堀えお堀り、石垣を築いて、天守閣以下十の矢倉を構え、同六年(一六〇一)ごろまでかかって厳然たる城郭を築きあげた。
 慶長十三年(一六〇八)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同十八年(一六一三)に改易となったので、約一年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。慶長十九年(一六一四)十二月、仙台藩伊達政宗の長子秀宗が宇和郡十万石に封じられ、翌元和元年(一六二五)三月に入城の後宇和島城と改めた。
 それ以後、代々伊達氏の居城となり、二代宗利のとき寛文四年(一六六四)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同十一年(一六七一)至り完成した。・・・宇和島市教育委員会より


イメージ 4 イメージ 2 イメージ 3

大洲城

イメージ 1大洲城の沿革
大洲城は、鎌倉時代末期、伊予国の守護宇都宮豊房の築いた地蔵ケ岳城が始まりといわれています。激動の戦国時代を経て、小早川隆景が伊予を平定した後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となりますが、このころは4層4階の天守を中心とした本格的な近世城郭に整備されたのではないかと考えられています。元和3年(1617)米子から加藤貞泰が入城しました。以後、明治維新を迎えるまで加藤氏が6万石の城主としてこの地を治めました。明治維新後、幕藩体制が崩壊し、明治21年(1888)には天守も取り壊されました。しかし、4棟の櫓は解体をまぬがれ、いずれも国の重要文化財にしていされています。城跡も県史跡にしていされ今日も大切に保存されています。4層4階の天守は、明治期の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の期組み模型など豊富な資料をもとに平成16年(2004)に木造で復元したものです。








イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4

今治城

イメージ 3

イメージ 6

【今治城の歴史】

 現在の今治城天守閣は、昭和55年今治市制60周年事業として再建された物です。同じ年に武具櫓を、昭和60年に御金櫓をそして平成7年には市制70周年記念事業として山里櫓を再建しました。イメージ 1

戦国時代の今治地方の支配拠点は、唐子山山頂の国府城で、能島水軍の領主村上武吉が居城としていた。天正13年(1585)年秀吉による四国征伐で侵略した小早川隆景に戦うことなく開城。伊予平定後の隆景に国府城を含む伊予国の大部分が与えられたが、天正15年筑前名島に転封。代わって福島正則が東予11万石を領し、翌年国府城に入城。8年後の文禄4年清洲城に転封。その後、池田景雄、小川祐忠と城主が変わり、慶長5年藤堂高虎が城主となった。
イメージ 4


高虎は浅井長政に仕えて、15歳で姉川の合戦に初陣。その後天正4年羽柴秀長に仕えて、天正13年雑賀根来一揆征伐の功で1万石、同15年九州征伐の功で2万石を領すが、秀長、その子秀俊が相次いで没し、高虎は二人の菩提を弔うために文禄4年高野山で出家。秀吉は才を惜しみ、同年7月招いて伊予宇和群7万石を与えた。                                

高虎は父と共に大洲に入城し、板島城(宇和島城)築城にかかる。慶長3年朝鮮征伐の功で1万石加増。翌年諸侯に先んじて弟正高を人質に差し出す。関ヶ原の合戦では、福島正則と共に徳川家康の先陣で活躍した。この功で12万石加増され、伊豫半国石の大名として国府城に入城した。 イメージ 2

藤堂高虎は、発展性に乏しい山城を捨て、軍事的に要地で、且つ海陸の交通のや経済発展にも便利な、20万石の大名に相応しい城郭と城下町を建設するため、地域を越智平野中央の今張に定めた。山城の戦略的城郭から、平城の政治的城郭へと脱皮を図ったのである。慶長7年6月11日に普譜を開始、慶長9年9月に完成。その広さは八町十六間四方、現在の金星川以南、旭町以東を城域とし三重の堀に海水を引き入れ、南方は総社川、東方は瀬戸内海を自然の守りとした大規模な海域であった。本丸には八間の石垣のうえに五層高楼の天守があり、二之丸に藩主館、中堀以内に上級武士、外堀以内に侍屋敷が要所要所には城門や櫓をもうけた。石積みは自然石をそのまま使う野面積みで、軟弱な地盤を補うために本丸、二の丸の石垣の下に犬走りを巡らせた。イメージ 5

今治城案内より・・・・

川之江城

イメージ 3



川之江城史

 南北朝動乱の頃(約650年前)南朝方河野氏の砦として、土肥義昌が延元二年(1337年)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。
 興国三年(1342年)北朝方、細川頼春が讃岐より七千の兵を率いて攻めてきた。義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落ちのびて各地を転戦した末武蔵国矢口で戦死している。

 細川氏の領有後、河野氏に返され城主は妻鳥友春になった。元亀三年(1572年)泡の三好長治が攻め入ったが、撃退している。土佐の長曽我部氏の四国平定の力に抗えきれなかった友春は、河野氏に背いて長曽我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝に命じて城を攻めとらせた。天正七年(1579年)前後のことと思われる。河上但馬守は、轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正十年(1582年)長曽我部しの再度の攻撃に敗れ、戦死落城している。その時、姫ケ獄より年姫が飛び込んで自殺したという悲話伝説も残っている。

 天正十三年(1587年)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川・福島・池田・小川と目まぐるしく領主が替わり、加藤嘉明の時最終的に廃城になった。数々の攻防は川之江が地理的的に重要な位置にあった為の悲劇ともいえる。

 戦国の世も終わった寛永十三年(1636年)一柳直家が川之江藩二八六〇〇石の領主になり、城山に城を築こうとしたが寛永十九年(1642年)病没。領地は没収されて幕領となり明治にいたったためわずか六年の「うたたかの川之江藩」で終わった。


イメージ 1 イメージ 2 イメージ 4

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事