■前回記事
台湾の恩人・司馬遼太郎と小林よしのり
| 司馬遼太郎氏は『台湾紀行』によって多くの台湾人の尊敬を集めました(台湾の独裁支配を狙う中国からは睨まれることになりましたが)。そして、司馬氏をさらに上回る感動を台湾に与えたのが、小林よしのり氏の『台湾論』でした。 |
| 以下、蔡焜燦著『台湾人と日本精神』より抜粋 |
『台湾論』の台湾上陸
| 2001年(平成13年)2月、『台湾論』という超特大級の“台風”が台湾に上陸した。小林よしのり著『台湾論』である。振り返れば、国際情報誌『SAPIO』(小学館)の「新・ゴーマニズム宣言」で台湾が取り上げられ、多くの台湾人がこの隔週誌に注目しはじめたのは、昨年夏頃のことだった。 |
| 漫画という思いもよらない手法で、台湾の歴史や政治問題を描いたこの画期的な連載作品に、我々台湾人は溜飲を下げ、そして固唾を飲んで次号を期待した。とりわけ日本語を解する年配者の間では、日本の知人から送ってもらうなどして手に入れた『SAPIO』のコピーが出回り、巷の話題を独り占めするようになった。まさに、あの『台湾紀行』の再来だった。 |
| さらにこの作品が、我々台湾人の「忠実な代弁者」だったことから街角が騒然としはじめたのである。国民党の独裁支配が終焉し、真の自由を手に入れたとはいえ、台湾の国際的孤立の立場に変わりはなく、屈辱的な現状に、ある種のあきらめすら感じていた年配者にとって、小林よしのり氏の「新・ゴーマニズム宣言」はあまりにも衝撃的だったのである。 |
| ところがこの痛快な大傑作も、年配の“日本語族”にしか読めないことに苛立ちを覚える者も少なくなかった。まして日本で、この連載作品が『台湾論』という単行本として出版され、爆発的にヒットしていることを知った日本語族のもどかしさは、ここに申すまでもない。それから四ヵ月後、ついに『台湾論』の中文版が台湾の前衛出版社から出版されることが発表されたのである。これを待ちわびた年配者達は、台湾に地殻変動が起こることを期待した。 |
歴史の真実を子孫に語り継げる喜び
| 無理もない、ようやく子孫に「台湾の歴史」を遺してやることができるのだから。マスコミが外省人に牛耳られたままの台湾で、歴史・政治問題の真実をかくも忠実に描いた書物が登場するなど、これまで誰が想像できたであろう。 |
| 『台湾論』をもって、歴史の真実を子供達に語り継げるその喜びは、これまで苦渋を舐めつづけてきた台湾人でなければわかるまい。だからこそ我々日本語族は『台湾論』を大歓迎し、頬に熱い感動を伝わせながら見事な描写のコマを目で追ったのだ。 |
| 『台湾論』の一コマごとに、我々台湾人の思いが凝縮されていた。「小林よしのり」という日本人漫画家が、我々台湾人の胸中を、余すところなく見事なタッチで描いてくれたのである。胸がすく思いとはこのことをいうのだろう。本書に幾度か登場した私ですら、読み返すたびに涙が溢れてくる。 |
「ありがとう…ありがとう!」
| | 年配の台湾人は、「小林よしのり」という正義感溢れる日本人に心から感謝した。 |
| 旧正月の直後に発売された『台湾論』は飛ぶように売れ、瞬く開に二十四万部を突破し、その勢いはとどまることを知らない。台湾の人口が、日本の六分の一であることから、単純に六倍しても、日本で一四四万部が売れた計算になる。ところが、評論家・黄文雄氏によれば、それは日本における五〇〇万部に匹敵するのだという。いずれにせよ、この『台湾論』は空前のベストセラーとなったのである。 |
| 思い起こせば、取材のため台湾にやってきた小林よしのり氏を迎えた国賓大飯店(アンバサダーホテル)の宴席は、かつて『台湾紀行』の取材のためにやってきた司馬先生を迎えた懐かしい場所でもあった。長年『SAPIO』の一読者でもあった私は、痛快な「新・ゴーマニズム宣言」の内容に深く感銘していたので、こうして会食をセットできるだけでも光栄だった。 |
| そして、「公」のために全力を尽くそうとする、この“日本精神”溢れた小林よしのり氏を心から応援してあげたかった。愛国心を失った現代の日本人の中にあって、彼の祖国を思う至純の心がたまらなく嬉しかったのである。 |
| とにかく、「小林よしのり」という著名漫画家は、ただ者ではなかった。鋭い洞察力と観察力、台湾人の気持ちを完全に理解できる驚くべき感受性は、漫画のひとコマひとコマに表れていた。 |
| もとより、台湾の歴史や社会問題にかくも真正面から挑んだ書籍など存在せず、それゆえに、『台湾論』の登場は、我々台湾人を驚愕させ、そして狂乱させたのである。加えて、その描写の正確さが話題を呼んだのだった。私自身、これほど説得力のある著物にこれまでお目にかかったことはない。 |
つづく
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| 戦後、中国国民党の支配することになった台湾には言論の自由がなく、政府に批判的と疑われたら最後、逮捕され銃殺されるという恐怖の時代が続きました。また知識ある者は独裁にとって都合が悪いので、無実の罪を着せられ処刑され、殺された犠牲者の数は3万人とも5万人とも言われてます。 |
| 1988年李登輝総統の登場により、台湾はようやく民主化の道を進むようになりましたが、国民党独裁政権時代の傷はいまだ深く、今でも政界もマスコミも一部の外省人(中国人)に握られ、情報操作されるという状況が続いています。歴史教育も本当の台湾の歴史を教えられず、専ら中国を中心とした中国に都合よく歪曲された歴史を学ばされてきました。さらに、日本人はかつて台湾が日本の一部であったことを忘れ、日本にも見捨てられた台湾の年配の人々は苦渋を嘗めつづけてきました。 |
| そんな中、2人の日本人が台湾に関する書を著し、年配の台湾人を大喜びさせました。司馬遼太郎の『台湾紀行』と、小林よしのりの『台湾論』です。蔡焜燦(サイコンサン)氏はその著書『台湾人と日本精神』において、司馬遼太郎氏を“台湾の恩人”と呼び、小林よしのり氏を司馬氏と同等かそれ以上の絶賛をしています。 |
| 現在の日本政府は中国に遠慮して台湾を中国の一部のように扱い、台湾人を怒らせていますが、はたしてそれでいいのでしょうか。『台湾紀行』と『台湾論』を読んだ台湾人の反応を書いた蔡焜燦氏の文章は、これまで台湾人がいかに中国人の圧政に苦しみ、日本人が目を向けてくれなくなったことを悲しんできたのかがよくわかります。これから日本が台湾とどう向き合っていくべきかを考える上で非常に重要なものと思われますので、一部紹介したいと思います。 |
| 以下、蔡焜燦著『台湾人と日本精神』より抜粋 |
台日両国民の心を近づけた『台湾紀行』
| そもそも文豪・司馬遼太郎が台湾を描くことになったきっかけは、大阪外国語大学時代の同級生である台湾人作家の陳舜臣氏が台湾に帰ったとき、李登輝総統から「台湾について書ける作家はいないかね。君はダメだよ、台湾人だから……日本人で」と持ちかけられ、陳氏の脳裡に浮かんだのが司馬先生だったのである。そして司馬先生への陳氏の電話での短い問いかけが『台湾紀行』誕生のきっかけとなった。「『街道をゆく』、台湾まだやな」(中略) |
| この作品は、台湾を知らない戦後世代の日本人が“台湾”を知る契機となり、さらに「台湾に生まれた悲哀」というセンセーショナルな言葉を生み出した李登輝総統との対談は、少なからぬ人々に台湾への理解を深めることに貢献した。また戦後に台湾から引き揚げた台湾生まれの日本人に、生まれ故郷のその後を伝達できたことはなによりである。(中略) |
| “日本語族”の人々は、かつての祖国・日本が再び台湾に関心を寄せてくれたと喜び、こうした人々を中心に、多くの台湾人が日本への郷愁や親愛の情をより一層深めていったのである。もっといえば、この作品は台日両国の精神的な距離を縮め、両国民に相互親愛の心を育んだ最高の「外交」だったといえよう。(中略) |
| 日本・台湾両国で一大センセーションを巻き起こした『台湾紀行』は、後に台湾で『司馬遼太郎と台湾』という本を生み出すなど、台湾人の多くが司馬先生の台湾観を再確認しようとした。それは、『台湾紀行』という本が、これまで封印されてきた台湾の歴史を見事に描き出し、さらにその鋭い洞察力をもって台湾の将来をはっきりと予見した作品だったからである。 |
| 紀行記『街道をゆく』シリーズ全四十三巻の内、政治問題に言及した作品は、この『台湾紀行』をおいて他にない。周知のごとく、複雑な台湾問題をこの一冊が見事に解き明かしてくれたことに台湾人は狂喜したのである。それと同時に、台湾人自身が戦後の国民党独裁政権によって封印されてきた自国・台湾の歴史をこの本によって知ることができたのだった。それほどまでにこの『台湾紀行』の出現は、我々台湾人にとって一大事件だったのである。 |
| 『台湾紀行』の巻末に収録されている李登輝総統と司馬先生との対談では、文明論からこれまでタブーとされてきた台湾を巡る国家論にまで発展した。そして台湾が台湾人の国であることを、様々な例証をもって確認している。司馬先生は、台湾の領有を執拗に主張する“大陸”に対しては、「中国のえらい人は、台湾とは何ぞやということを根源的に世界史的に考えたこともないでしょう」と、とりわけ手厳しい。 |
| こうした内容が中国の猛反発を買い、司馬先生は日中文化交流協会の代表理事を辞任するまでに発展したのである。しかしながら、そうした結果を招くことをご本人も予期していたにちがいない。むしろ、司馬先生はすべてを覚悟の上で『台湾紀行』に取り組んだものと思われる。 |
つづく
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インドネシア軍政の最大の失敗
| 歯に衣着せず率直に物を言うたちのアラムシャ氏は次のような指摘もした。「日本軍は当初インドネシア解放のためにやって来たと言っていたが、途中でインドネシアの国旗と国歌の使用を禁止してしまったので、私たちは日本人を信用できなくなってしまった」という。 |
| 今にして思えば、これは返すがえすも残念なことであった。一九四二年にインドネシア諸島に上陸した私たちは、ジャワに上陸した一六軍司令官の今村中将だけでなく、スマトラヘ上陸した近衛師団の私たちもすべてがアジア解放の使命感に燃えていた。 |
| その後フィリピンとビルマにはすぐ独立が認められたのに、インドネシアについては時期未だしとして保留されたので、私たち第一線の将兵や軍政部員はこれをインドネシア人とともに悲しみ、一生懸命に住民を訓練して独立能力を与えようとしていた。 |
| ところが日本の大本営の内部で政治権力の変動があり、戦争中途における原住民の民族主義が行きすぎて制御しにくくなることを危険とする狭量な独善派が、一時的にしろ権力を握ってあのような指令を出してしまった。これが今日まで禍根を残しているのである。 |
| その後終戦一年前に東條首相に代って小磯大将が首相となり、直ちにインドネシアの独立許容の声明を出して準備を始め、紅白のインドネシア国旗やインドネシアラヤの国歌の使用が許されたことは、日本人の善意のための大いなる救いであった。しかし日本が間もなく敗戦したので、遅きに失した憾みは掩いきれない。 |
労務者(ロームシャ)のでっちあげ問題
| 人工稠密なジャワでは、農地を持ちえない農家の二、三男坊がいつも多数あぶれており、オランダ時代にはこれがスマトラヘ送られて農園の開拓のため家畜のような消耗品として使われていた。 |
| 今になって聞いてみると、制海制空権を奪われて苦慮した日本軍が、たとえそれがアジア解放のためであったにしても、こともあろうにそのオランダ人の真似をして、ジャワ農民を(鉄道工事のため)労務者に駆り出して多くの病死者を出したのは、誠に残念なことであった。敵の爆撃下で峯づたいに鉄道を作ることは想像を越えた難工事であって、日本兵だってたくさん病死したのだから、労務者がどんなに苦労したかは想像に余る。 |
| 当時日本軍はほとんど勝ち目がなくなったアジア解放戦を、なお勝ちぬこうと無理に無理を重ねていた。どうせ負けるならやらない方が良かったとは後からは言えるが、戦争とは、両方が勝とうと思って必死になっているのに、どちらかが負けざるを得ないという、悲しい人類の生存闘争なのであって、負けようと思って戦う者はないのである。 |
| しかしこのような労務者哀史が教科書に書かれると、他の所でも同じようなことがあったように、デッチ上げの物語りがあちこちで作られるのは困ったものである。例えば、西スマトラのブキチンギには断層で出来た峡谷がある。そこの壁に「労務者の穴」という観光の名所が、戦後三十年以上もたってから突然作られた。これを見て帰られた後藤氏によると、その入口には日本兵が銃剣を突きつけてインドネシア人労務者に洞穴陣地を掘らせている銅版画がかかげられている。 |
| ところがこれは、経理将校が現地に往む通いの労務者を雇って掘らせた単なる防空壕であって、これを手助けした一人の軍曹も銃器などは持っておらず、工事は三ヵ月かかったがその間に怪我人や死者は全く無く静穏に行なわれたので、同じ司令部に居ても大部分がその工事を知らなかったほどである。従って、銃剣を突きつけて強制したとか、そのために労務者が病気になるというようなことは有りえなかったのである。 |
| スマトラのアチエ州海岸でも私たちは住民に陣地構築を手伝わせていたが、日本兵は労働の邪魔になる銃器などは宿舎に置いて裸で出掛け、インドネシア労務者の先頭に立って働いていたから、銅版画のような風景はありえなかった。 |
| 戦後アチエの古戦場を訪れた日本兵に対して彼らは「私たちインドネシア人の祖国を守るために、あなた方日本兵は私たちの三倍も働いてくれた」と感謝していたのである。 |
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| 総山孝雄氏とインドネシア調整大臣アラムシャ氏との会談より |
インドネシアの歴史教科書問題
| 1990年1月、総山孝雄氏はインドネシアの調整大臣アラムシャ中将を訪問し、インドネシアの歴史教科書が、戦中戦後の日イ関係について必ずしも公正に書かれていない問題を中心にして会談した。 |
| 実際にみずから戦中を体験したインドネシアの友人たちは、次のように日本軍の占領時代を評価している。 |
| 「種々の末梢的例外的なトラブルはあったにしても、三年半の日本軍の駐留の間、日イ両民族はアジア解放の同志戦友として総体的に協力関係にあった。 |
| 特にそれまでオランダの分割統治政策によって諸部族相反目して団結を知らず、白人に支配されるのを当然の宿命と感じて甘受していたインドネシア人に対して、日本人は団結と民族主義的な誇りを教えこみ、行政のやり方を教え、義勇軍や兵補の教育を通じて戦闘能力を与えてくれた。 |
| これは日本人のインドネシアに対する偉大な貢献であり、これなくしてはわれわれの独立達成はありえなかった」 |
| 戦後に知りあった前駐日大使のヨギ・スパルディ氏も全く同じ考えであった。 |
| にも拘らず独立後に作られたインドネシアの中・高校の歴史教科書では、日本人は邪悪な侵略者にすぎなかったと書かれているので、戦後派の若者は日本人がいくら親切にしても昔悪い事をしたから当り前だと思っている。インドネシアの私の同志たちは、このまま日イ両国の戦争体験者が年とって死に絶えたら、歴史を正す生き証人が無くなってしまうと歎いているのである。 |
| このことを言うとアラムシャ氏は次のように答えた。 |
「独立後沢山のインドネシア人が言葉の通じやすいオランダや米英に留学し、西欧側で作られた太平洋戦争史を学んで帰った人が筆を揃えて歴史を書いたので、日本人のやった良い事が無視されて悪く書かれてしまったことは否めない。
| | 私は日本人に訓練されて独立戦を戦い、日本人のやった良い事も知っており、これからのインドネシアが日本と提携して発展することはきわめて大切だと思うので、留学生をできるだけ多く日本へ送るよう努力している。 |
| 日本軍がやったことで最もよかったのは、義勇軍を訓練して愛国心を教え、軍事能力を与えてくれたことである。それで私は、今回『ペ夕=義勇軍』と題する著書を出版した」 |
| そして表紙の上に旭日旗や日本刀をあしらった色彩も鮮やかな大判の著書が総山孝雄氏に贈られた。 |
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| 留学生を日本へ送るというアラムシャ氏の考えは、普通であれば良い方法になるはずです。しかし残念なことに日本の歴史教育は普通ではありません。日本軍政についてマイナス面ばかり教育してるため、日本で学んだがために欧米によって歪められた歴史教育が正しかったと認識して帰国する留学生が多く、逆効果になっているのです。インドネシアの報告書にもあった通り、「日本人はやたら謝る人が多くてがっかりする」とインドネシア留学生に言われてしまうのが現状です。この問題を解消するためには、まず日本人が正しい歴史を知ることが必要です。当時の人々の言葉に耳を傾け、日本の教育から改革をしていかなければならないでしょう。これからのアジアとの友好関係にとっても必要なことです。 |
■次回記事
インドネシアの大臣と歴史問題を語る2
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