インドネシア軍政の最大の失敗
| 歯に衣着せず率直に物を言うたちのアラムシャ氏は次のような指摘もした。「日本軍は当初インドネシア解放のためにやって来たと言っていたが、途中でインドネシアの国旗と国歌の使用を禁止してしまったので、私たちは日本人を信用できなくなってしまった」という。 |
| 今にして思えば、これは返すがえすも残念なことであった。一九四二年にインドネシア諸島に上陸した私たちは、ジャワに上陸した一六軍司令官の今村中将だけでなく、スマトラヘ上陸した近衛師団の私たちもすべてがアジア解放の使命感に燃えていた。 |
| その後フィリピンとビルマにはすぐ独立が認められたのに、インドネシアについては時期未だしとして保留されたので、私たち第一線の将兵や軍政部員はこれをインドネシア人とともに悲しみ、一生懸命に住民を訓練して独立能力を与えようとしていた。 |
| ところが日本の大本営の内部で政治権力の変動があり、戦争中途における原住民の民族主義が行きすぎて制御しにくくなることを危険とする狭量な独善派が、一時的にしろ権力を握ってあのような指令を出してしまった。これが今日まで禍根を残しているのである。 |
| その後終戦一年前に東條首相に代って小磯大将が首相となり、直ちにインドネシアの独立許容の声明を出して準備を始め、紅白のインドネシア国旗やインドネシアラヤの国歌の使用が許されたことは、日本人の善意のための大いなる救いであった。しかし日本が間もなく敗戦したので、遅きに失した憾みは掩いきれない。 |
労務者(ロームシャ)のでっちあげ問題
| 人工稠密なジャワでは、農地を持ちえない農家の二、三男坊がいつも多数あぶれており、オランダ時代にはこれがスマトラヘ送られて農園の開拓のため家畜のような消耗品として使われていた。 |
| 今になって聞いてみると、制海制空権を奪われて苦慮した日本軍が、たとえそれがアジア解放のためであったにしても、こともあろうにそのオランダ人の真似をして、ジャワ農民を(鉄道工事のため)労務者に駆り出して多くの病死者を出したのは、誠に残念なことであった。敵の爆撃下で峯づたいに鉄道を作ることは想像を越えた難工事であって、日本兵だってたくさん病死したのだから、労務者がどんなに苦労したかは想像に余る。 |
| 当時日本軍はほとんど勝ち目がなくなったアジア解放戦を、なお勝ちぬこうと無理に無理を重ねていた。どうせ負けるならやらない方が良かったとは後からは言えるが、戦争とは、両方が勝とうと思って必死になっているのに、どちらかが負けざるを得ないという、悲しい人類の生存闘争なのであって、負けようと思って戦う者はないのである。 |
| しかしこのような労務者哀史が教科書に書かれると、他の所でも同じようなことがあったように、デッチ上げの物語りがあちこちで作られるのは困ったものである。例えば、西スマトラのブキチンギには断層で出来た峡谷がある。そこの壁に「労務者の穴」という観光の名所が、戦後三十年以上もたってから突然作られた。これを見て帰られた後藤氏によると、その入口には日本兵が銃剣を突きつけてインドネシア人労務者に洞穴陣地を掘らせている銅版画がかかげられている。 |
| ところがこれは、経理将校が現地に往む通いの労務者を雇って掘らせた単なる防空壕であって、これを手助けした一人の軍曹も銃器などは持っておらず、工事は三ヵ月かかったがその間に怪我人や死者は全く無く静穏に行なわれたので、同じ司令部に居ても大部分がその工事を知らなかったほどである。従って、銃剣を突きつけて強制したとか、そのために労務者が病気になるというようなことは有りえなかったのである。 |
| スマトラのアチエ州海岸でも私たちは住民に陣地構築を手伝わせていたが、日本兵は労働の邪魔になる銃器などは宿舎に置いて裸で出掛け、インドネシア労務者の先頭に立って働いていたから、銅版画のような風景はありえなかった。 |
| 戦後アチエの古戦場を訪れた日本兵に対して彼らは「私たちインドネシア人の祖国を守るために、あなた方日本兵は私たちの三倍も働いてくれた」と感謝していたのである。 |
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