TAMANIWA たまには

平和な世の中をつくるために、たまには更新しなくちゃね

台湾

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

【台湾人の声】 小泉総理靖国神社参拝について--- 私の歴史観

作者:許文政(KHOU Bun-cheng)
小泉総理が八月十五日終戦の日に靖国神社を参拝したことについて、アジア隣国及び国内の人々から色々な論評が浴びせられた。憤る声も有り、“えらい”と言って微笑んで拍手した人も居た。中国政府は何時も「歴史を顧みて反省せよ」と云う口調で靖国神社参拝を厳しく非難し、日本の国内問題に干渉する。若し日本が中国の非難する通り、過去の日中戦争を反省しなければいけないならば、今日の中国は台湾に対する軍事的脅迫、又台湾を攻撃目標とする800基余りのミサイルを徹去しなければならないではないか。
昭和四十八年四月十四日厚生省の發表資料に依れば、台湾出身者が、兵隊に召集された人達と志願兵達を合せて207,193名を数え、その内戦歿者は30,304名、そのうちの27,864名の方々が靖国神社にお祀りされている。この事実は日本史の一部である。良いか悪いかを問わず、歴史を直視して其のまま次の世代に教えてほしい。
終戦後台湾に復員した旧日本兵は、台湾へ亡命した蒋介石政権から嫌われ、蔑まれた。旧日本兵は過去の敵だと言うわけだ。終戦まで台湾は植民地であり、台湾人も日本人として共に最後まで戦った。これは台湾史の一部であり、台湾人にとっては、国民党の歴史観による「抗日勝利」とか「台湾光復」という言葉には抵抗がある。また日本は蒋政権の「中華民国」に投降した訳ではない。蒋介石は只マッカ-サ-連合軍司令官の命令を受け連合軍を代表したにすぎない。
靖国神社参拝に行くか、行かないかは、各々の心の問題であり、自分できめることだ。参拝を批判して反対する方がおかしい。私は司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」全八巻をよみました。読んでつくづく日本人全体が、天皇陛下を含め、毎年靖国神社参拝に行くべきだと深く感じた。私は1983年と2003年、あわせて二度行きました。南洋で戦死したおじ(父方のおばの夫)は、私の靖国神社参りを見て、きっと喜んだことでしょう。

■「台湾の声」
【台湾人の声】小泉総理靖国神社参拝について--- 私の歴史観


開く トラックバック(14)

【台湾人の声】小泉首相の靖国参拝のニュースを受けて

作者: 戦中理工科で学徒出陣を免れた日本帰りの老人、林 松江
さすがに小泉首相8月15日に靖国神社参拝;えらい
次の日本の首相も同じく靖国神社を参拝に赴く骨の有る人が適当であろう。
中国、朝鮮と台湾のシナ人が「靖国にA級戦犯が祭られているから」といって日本の主な政治家の靖国参拝を非難するのは人間の思想の自由を束縛する行為。彼らは参拝に反対する権利が無い。
参拝がどうして彼等の心情に害を与えたと言うのか?!有る人が私は泥棒をすると言っただけで実行しないならば周りの人に害を与えたことになるのか?まして神を拝む行為が如何なる物理現象で遠く離れた反対者の精神に損傷を与えたとも言うのか?!
シナが日本に望むことは日本がシナに望むより多い。総理が相手の首領と対話が無くても日本の生存に不利な事は無い。
ODAで戦後シナに莫大な経済援助をしても彼等シナ・朝鮮は感謝しないし、そもそも援助さえ彼等国民にあまり知らされていない。
シナは111年来日本を恨み常に為政者は反日の口実を国民に与えて人心統一をはかってきた。戦前の侮日、抗日、排日と今の靖国排斥など一貫している、靖国参拝を日本の政治家が止めたら、次にまた何らかの不当な要求を突きつけてくる。そして日本を属国にする魂胆だ。
私は靖国参拝反対の人は日本人でも真の日本人ではないと思う。
我等80歳台の台湾人はわれらに変わり戦争で犠牲になつてくださつた靖国の英霊に最高の感謝をする。英霊よ。永遠に安眠なされよ!

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
作者: Bun-cheng
日本現任内閣総理大臣,小泉純一郎(Koizumi Junichirou)ti今日八月十五日終戰日早起時七點半左右離開官邸,前往東京九段靖国神社ti七點四十分kau-hia,昇上本殿行禮參拜,用内閣総理大臣小泉純一郎名義,奉上獻花料。
【小泉総理は終戦記念日7時半ごろ官邸を出て、7時40分、九段の靖国神社に到着し、昇殿参拝を行った。内閣総理大臣小泉純一郎として記帳し、献花料を奉げた。】
che-si繼中曾根総理二十一年来第一次ti八月十五日參拜靖国神社。過去中韓一再強烈用各種方式表態反対日本首相前往靖国神社參拜。M-ku小泉kong che-si i個人心靈文化e問題,si beh追悼慰靈戰爭中為国犧牲,獻上宝貴生命e同胞,為世界和平祈祷。毎擺当記者問 i u beh koh 去ia bo ?i long kong e 「適切」應対。小泉ti任内tiong,過去有五擺參拜靖国神社。為著 beh完満 i long有意迴避八月十五日chit-kang。這擺i認為無論to-chit-kang khi long有人e講話,所以專工揀今日八月十五日終戰日去參拜。小泉不但是言行一致,有勇氣堅守理念諾言e 首相, i ma u豐富e人文氣質kap歴史素養。
【8月15日の首相による参拝は、中曽根総理の参拝のあと21年ぶり。これまで中韓は、日本の首相の参拝について、再三にわたって、様々な方法で強烈に反対を表明していた。一方、小泉氏はこれは個人の心の問題であるとし、戦争中、国家のために、尊い命を奉げて犠牲となった同胞を追悼慰霊し、世界平和のために祈りたいと語っていた。記者に参拝するかどうか問われると、「適切に判断します」と答えていた。小泉氏は任期中、過去5回参拝している。これまで、8月15日をあえて避けていたが、今回は、「いつ行っても、反対する人はいる」として、8月15日の終戦記念日に参拝した。小泉氏は言行一致しており、理念と約束を堅持する勇気を持った首相である。また、豊かな文学性と歴史への教養持っている。】
台湾人有27,864人戰歿者祭祀ti靖国神社,戰後大多数日本人bo-chin-aicheng-si kong-khi chia-e代誌。比如高砂義勇隊員一等兵,日本名中村輝夫〈中国名李光輝〉終戰29年後ti南洋Morotai島被発現,che kap小野田少尉被発現時e情行,日本対待両個long bo kang-khoan。雖然過去in long si日本兵。che tio-si台湾所経過e歴史。
【台湾人は、27,864名の戦没者が靖国神社に祭られている。戦後、大多数の日本人は表立ってこのことを語ろうとしなかった。たとえば、高砂義勇隊中村輝夫一等兵(中国式の名前は李光輝)終戦29年後に南洋のモロタイ島で発見されたが、日本政府は小野田寛雄少尉が発見された時とは、いずれもかつて日本兵であったのに異なる対応をとった。これこそ台湾が歩んだ歴史である。】
台湾政府若是beh tui小泉首相參拜靖国神社発表評論,應該tio瞭解歴史,根據歴史,m-thang kong lang kah-i thiaN e好聽話。
【台湾政府が、小泉首相の靖国参拝についてコメントを出すならば、この歴史を理解し、この歴史にもとづいてコメントするべきである。人に阿る発言をしてはならない。】

【原文台湾語。日本語は編集部訳】



開く トラックバック(1)


『台湾論』の登揚は、日本国内で台湾への関心を高めたばかりか、眠っていた台湾人のアイデンティティーを一気に覚醒させた。とくに戦後半世紀におよぶ“漢化”に対して、なんら疑問を持たなかった若者達に大きな影響を与えたのである。
これまで国民党の反日教育を受けてきた若者達は、祖父母から聞かされてきた日本統治時代の真実を『台湾論』に確認した。また実に多くの若者達が、戦後の中華民国独裁体制による暗黒の時代を“視覚”で捉えることができたのはなによりであった。

真実の歴史が暴露され、大慌ての外省人(中国人)

一方、自分達にとって都合の悪い歴史を封印しておきたかった外省人達は大慌てだった。彼らは、小林よしのり氏の写真や『台湾論』に火をつけるなど、いかにも中国的なパフォーマンスで感情を表現してみせた。そしてこれに呼応して、台湾のマスコミ各社が一斉に『台湾論』批判を展開し、あたかも台湾中が『台湾論』を歓迎していないような錯覚を内外に与えた。
しかしそれは、台湾全人口2300万人のわずか10%程度の外省人=中国人による情報操作であった。台湾の大手新聞社や主要テレビ局などは、いまも外省人に牛耳られているため、大多数であるにもかかわらず、我々台湾人の声は黙殺され、外省人の反応や感情だけがあたかも総論のように報道されたのである。
ところが、外省人らの反論は、まったくお粗末といわざるを得なかった。もとより、『台湾論』に描かれた正確な“史実”に反論する余地はなく、結局のところ、「日本軍の慰安婦は強制連行されたものではなかった」という記述に対して感情的に反発するのが精一杯だった。大衆をまんまと乗せやすい慰安婦問題以外に、なんら反論できなかったことは、それすなわち『台湾論』に描かれた内容を事実上認めたことになり、藪をつついて蛇を出す結果に終わってしまったのである。マスメディアを総動員して『台湾論』を葬り去れば、どうにかなると思い上がった外省人達の大きな誤算だった。
当初、慰安婦問題の発言の主であった許文龍氏に彼らの非難が集中したが、許氏は決して怯まなかった。許氏は、外省人達の圧力に屈しなかった。外省人達は、許氏の正義と信念の前にひれ伏したのである。
私自身、南方から引き揚げてきた慰安婦と言葉を交わしているが、強制連行などという話は聞いたことがない。慰安婦問題で外省人達の攻撃にさらされた許文龍氏と私は、ある意味で、河野洋平および村山富市発言の犠牲者でもある。
私は、ここで彼らに問いたい。「“強制連行”の証拠を出してみなさい」
外省人らによる私への攻撃も凄まじかった。自宅には、ひっきりなしに取引の申し入れや、嫌がらせの電話が殺到したので、しばらくの間は電話を不通にしておくほかなかった。そして連日の悪質な電話は、会社にまでかかってきたので、私は、「本件は、我が社の蔡董事長の個人的な考えですから、弊社には関係ございません」と応えるよう社員達に指示した。新竹にある本社と台北事務所の女性社員達は、連日電話の応対に明け暮れ、そして涙を流しっぱなしだったという。「あんなに優しい蔡董事長が…、こんなにも国を愛し、私心を投げ捨てて国のために尽くしている董事長が、なぜこんな仕打ちを受けなければならないのか…」彼女達は私のことを気に掛けてくれていた。

外省人(中国人)による弾圧国家になるかどうかの瀬戸際

こうした状況下にあったが、私は、断固として小林よしのり氏と『台湾論』を守る覚悟だった。『台湾論』の内容が正しいことは、いうまでもないことだが、これほどまで台湾を愛してくれた恩人・小林よしのり氏を擁護せねばならないという思いがあった。
と同時に、私は、台湾が大きく変わろうとしている気運を感じとってもいた。連絡をつけることができた何人かの日本人に私はこう話した。「ここは辛抱なんです。これを乗り越えれば間違いなく台湾は変わりますよ。『台湾論』のおかげなんですよ…」
その頃、小林よしのり氏は、外省人からバッシングされている許文龍氏や私のことを気遣ってくれていたというから胸が痛かった。小林よしのり氏に申し訳なかった。また我が祖国・台湾がいまも“中華民国”であり続けている現状を再認識させられ、はらわたが煮えくり返る思いだったのである。
台湾のマスコミは、大多数の国民の気持ちを完全に無視し、『台湾論』への批判を連日繰り広げた。圧倒的多数の台湾人が『台湾論』に熱狂し、小林よしのり氏に感謝している現状は、見事に封殺されてしまったのである。一方で、民意を無視したマスコミの“嘘”に、「またか…」と、いつものシラケを覚えた台湾人も少なくなかった。
ところがそうするうちに、『台湾論』をめぐる一連の騒動は、小林よしのり氏の入境禁止(入国禁止)という、あってはならない事態にエスカレートする。それは、言論の自由を訴えてきた陳水扁総統の意向を無視した統一派官僚達の権力乱用による強引な決定だった。「もはや台湾の民主主義は死に絶えたのか」「台湾人がこれまで苦労して勝ち取った言論の自由はどこにいってしまったのか」方々から嘆きの声が上がった。
台湾は、一握りの悪辣な中国人達によって、再びあの暗黒の時代に逆戻りさせられるかに思われた。

つづく

開く トラックバック(16)

■前回記事
台湾の恩人・司馬遼太郎と小林よしのり
司馬遼太郎氏は『台湾紀行』によって多くの台湾人の尊敬を集めました(台湾の独裁支配を狙う中国からは睨まれることになりましたが)。そして、司馬氏をさらに上回る感動を台湾に与えたのが、小林よしのり氏の『台湾論』でした。
以下、蔡焜燦著『台湾人と日本精神』より抜粋

『台湾論』の台湾上陸

2001年(平成13年)2月、『台湾論』という超特大級の“台風”が台湾に上陸した。小林よしのり著『台湾論』である。振り返れば、国際情報誌『SAPIO』(小学館)の「新・ゴーマニズム宣言」で台湾が取り上げられ、多くの台湾人がこの隔週誌に注目しはじめたのは、昨年夏頃のことだった。
漫画という思いもよらない手法で、台湾の歴史や政治問題を描いたこの画期的な連載作品に、我々台湾人は溜飲を下げ、そして固唾を飲んで次号を期待した。とりわけ日本語を解する年配者の間では、日本の知人から送ってもらうなどして手に入れた『SAPIO』のコピーが出回り、巷の話題を独り占めするようになった。まさに、あの『台湾紀行』の再来だった。
さらにこの作品が、我々台湾人の「忠実な代弁者」だったことから街角が騒然としはじめたのである。国民党の独裁支配が終焉し、真の自由を手に入れたとはいえ、台湾の国際的孤立の立場に変わりはなく、屈辱的な現状に、ある種のあきらめすら感じていた年配者にとって、小林よしのり氏の「新・ゴーマニズム宣言」はあまりにも衝撃的だったのである。
ところがこの痛快な大傑作も、年配の“日本語族”にしか読めないことに苛立ちを覚える者も少なくなかった。まして日本で、この連載作品が『台湾論』という単行本として出版され、爆発的にヒットしていることを知った日本語族のもどかしさは、ここに申すまでもない。それから四ヵ月後、ついに『台湾論』の中文版が台湾の前衛出版社から出版されることが発表されたのである。これを待ちわびた年配者達は、台湾に地殻変動が起こることを期待した。

歴史の真実を子孫に語り継げる喜び

無理もない、ようやく子孫に「台湾の歴史」を遺してやることができるのだから。マスコミが外省人に牛耳られたままの台湾で、歴史・政治問題の真実をかくも忠実に描いた書物が登場するなど、これまで誰が想像できたであろう。
『台湾論』をもって、歴史の真実を子供達に語り継げるその喜びは、これまで苦渋を舐めつづけてきた台湾人でなければわかるまい。だからこそ我々日本語族は『台湾論』を大歓迎し、頬に熱い感動を伝わせながら見事な描写のコマを目で追ったのだ。
『台湾論』の一コマごとに、我々台湾人の思いが凝縮されていた。「小林よしのり」という日本人漫画家が、我々台湾人の胸中を、余すところなく見事なタッチで描いてくれたのである。胸がすく思いとはこのことをいうのだろう。本書に幾度か登場した私ですら、読み返すたびに涙が溢れてくる。
「ありがとう…ありがとう!」
年配の台湾人は、「小林よしのり」という正義感溢れる日本人に心から感謝した。
旧正月の直後に発売された『台湾論』は飛ぶように売れ、瞬く開に二十四万部を突破し、その勢いはとどまることを知らない。台湾の人口が、日本の六分の一であることから、単純に六倍しても、日本で一四四万部が売れた計算になる。ところが、評論家・黄文雄氏によれば、それは日本における五〇〇万部に匹敵するのだという。いずれにせよ、この『台湾論』は空前のベストセラーとなったのである。
思い起こせば、取材のため台湾にやってきた小林よしのり氏を迎えた国賓大飯店(アンバサダーホテル)の宴席は、かつて『台湾紀行』の取材のためにやってきた司馬先生を迎えた懐かしい場所でもあった。長年『SAPIO』の一読者でもあった私は、痛快な「新・ゴーマニズム宣言」の内容に深く感銘していたので、こうして会食をセットできるだけでも光栄だった。
そして、「公」のために全力を尽くそうとする、この“日本精神”溢れた小林よしのり氏を心から応援してあげたかった。愛国心を失った現代の日本人の中にあって、彼の祖国を思う至純の心がたまらなく嬉しかったのである。
とにかく、「小林よしのり」という著名漫画家は、ただ者ではなかった。鋭い洞察力と観察力、台湾人の気持ちを完全に理解できる驚くべき感受性は、漫画のひとコマひとコマに表れていた。
もとより、台湾の歴史や社会問題にかくも真正面から挑んだ書籍など存在せず、それゆえに、『台湾論』の登場は、我々台湾人を驚愕させ、そして狂乱させたのである。加えて、その描写の正確さが話題を呼んだのだった。私自身、これほど説得力のある著物にこれまでお目にかかったことはない。

つづく



開く トラックバック(284)

戦後、中国国民党の支配することになった台湾には言論の自由がなく、政府に批判的と疑われたら最後、逮捕され銃殺されるという恐怖の時代が続きました。また知識ある者は独裁にとって都合が悪いので、無実の罪を着せられ処刑され、殺された犠牲者の数は3万人とも5万人とも言われてます。
1988年李登輝総統の登場により、台湾はようやく民主化の道を進むようになりましたが、国民党独裁政権時代の傷はいまだ深く、今でも政界もマスコミも一部の外省人(中国人)に握られ、情報操作されるという状況が続いています。歴史教育も本当の台湾の歴史を教えられず、専ら中国を中心とした中国に都合よく歪曲された歴史を学ばされてきました。さらに、日本人はかつて台湾が日本の一部であったことを忘れ、日本にも見捨てられた台湾の年配の人々は苦渋を嘗めつづけてきました。
そんな中、2人の日本人が台湾に関する書を著し、年配の台湾人を大喜びさせました。司馬遼太郎の『台湾紀行』と、小林よしのりの『台湾論』です。蔡焜燦(サイコンサン)氏はその著書『台湾人と日本精神』において、司馬遼太郎氏を“台湾の恩人”と呼び、小林よしのり氏を司馬氏と同等かそれ以上の絶賛をしています。
現在の日本政府は中国に遠慮して台湾を中国の一部のように扱い、台湾人を怒らせていますが、はたしてそれでいいのでしょうか。『台湾紀行』と『台湾論』を読んだ台湾人の反応を書いた蔡焜燦氏の文章は、これまで台湾人がいかに中国人の圧政に苦しみ、日本人が目を向けてくれなくなったことを悲しんできたのかがよくわかります。これから日本が台湾とどう向き合っていくべきかを考える上で非常に重要なものと思われますので、一部紹介したいと思います。
以下、蔡焜燦著『台湾人と日本精神』より抜粋

台日両国民の心を近づけた『台湾紀行』

そもそも文豪・司馬遼太郎が台湾を描くことになったきっかけは、大阪外国語大学時代の同級生である台湾人作家の陳舜臣氏が台湾に帰ったとき、李登輝総統から「台湾について書ける作家はいないかね。君はダメだよ、台湾人だから……日本人で」と持ちかけられ、陳氏の脳裡に浮かんだのが司馬先生だったのである。そして司馬先生への陳氏の電話での短い問いかけが『台湾紀行』誕生のきっかけとなった。「『街道をゆく』、台湾まだやな」(中略)
この作品は、台湾を知らない戦後世代の日本人が“台湾”を知る契機となり、さらに「台湾に生まれた悲哀」というセンセーショナルな言葉を生み出した李登輝総統との対談は、少なからぬ人々に台湾への理解を深めることに貢献した。また戦後に台湾から引き揚げた台湾生まれの日本人に、生まれ故郷のその後を伝達できたことはなによりである。(中略)
“日本語族”の人々は、かつての祖国・日本が再び台湾に関心を寄せてくれたと喜び、こうした人々を中心に、多くの台湾人が日本への郷愁や親愛の情をより一層深めていったのである。もっといえば、この作品は台日両国の精神的な距離を縮め、両国民に相互親愛の心を育んだ最高の「外交」だったといえよう。(中略)
日本・台湾両国で一大センセーションを巻き起こした『台湾紀行』は、後に台湾で『司馬遼太郎と台湾』という本を生み出すなど、台湾人の多くが司馬先生の台湾観を再確認しようとした。それは、『台湾紀行』という本が、これまで封印されてきた台湾の歴史を見事に描き出し、さらにその鋭い洞察力をもって台湾の将来をはっきりと予見した作品だったからである。
紀行記『街道をゆく』シリーズ全四十三巻の内、政治問題に言及した作品は、この『台湾紀行』をおいて他にない。周知のごとく、複雑な台湾問題をこの一冊が見事に解き明かしてくれたことに台湾人は狂喜したのである。それと同時に、台湾人自身が戦後の国民党独裁政権によって封印されてきた自国・台湾の歴史をこの本によって知ることができたのだった。それほどまでにこの『台湾紀行』の出現は、我々台湾人にとって一大事件だったのである。
『台湾紀行』の巻末に収録されている李登輝総統と司馬先生との対談では、文明論からこれまでタブーとされてきた台湾を巡る国家論にまで発展した。そして台湾が台湾人の国であることを、様々な例証をもって確認している。司馬先生は、台湾の領有を執拗に主張する“大陸”に対しては、「中国のえらい人は、台湾とは何ぞやということを根源的に世界史的に考えたこともないでしょう」と、とりわけ手厳しい。
こうした内容が中国の猛反発を買い、司馬先生は日中文化交流協会の代表理事を辞任するまでに発展したのである。しかしながら、そうした結果を招くことをご本人も予期していたにちがいない。むしろ、司馬先生はすべてを覚悟の上で『台湾紀行』に取り組んだものと思われる。

つづく



開く トラックバック(16)

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


.
nyan
nyan
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

検索 検索
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事