インドネシア軍政の最大の失敗
| 歯に衣着せず率直に物を言うたちのアラムシャ氏は次のような指摘もした。「日本軍は当初インドネシア解放のためにやって来たと言っていたが、途中でインドネシアの国旗と国歌の使用を禁止してしまったので、私たちは日本人を信用できなくなってしまった」という。 |
| 今にして思えば、これは返すがえすも残念なことであった。一九四二年にインドネシア諸島に上陸した私たちは、ジャワに上陸した一六軍司令官の今村中将だけでなく、スマトラヘ上陸した近衛師団の私たちもすべてがアジア解放の使命感に燃えていた。 |
| その後フィリピンとビルマにはすぐ独立が認められたのに、インドネシアについては時期未だしとして保留されたので、私たち第一線の将兵や軍政部員はこれをインドネシア人とともに悲しみ、一生懸命に住民を訓練して独立能力を与えようとしていた。 |
| ところが日本の大本営の内部で政治権力の変動があり、戦争中途における原住民の民族主義が行きすぎて制御しにくくなることを危険とする狭量な独善派が、一時的にしろ権力を握ってあのような指令を出してしまった。これが今日まで禍根を残しているのである。 |
| その後終戦一年前に東條首相に代って小磯大将が首相となり、直ちにインドネシアの独立許容の声明を出して準備を始め、紅白のインドネシア国旗やインドネシアラヤの国歌の使用が許されたことは、日本人の善意のための大いなる救いであった。しかし日本が間もなく敗戦したので、遅きに失した憾みは掩いきれない。 |
労務者(ロームシャ)のでっちあげ問題
| 人工稠密なジャワでは、農地を持ちえない農家の二、三男坊がいつも多数あぶれており、オランダ時代にはこれがスマトラヘ送られて農園の開拓のため家畜のような消耗品として使われていた。 |
| 今になって聞いてみると、制海制空権を奪われて苦慮した日本軍が、たとえそれがアジア解放のためであったにしても、こともあろうにそのオランダ人の真似をして、ジャワ農民を(鉄道工事のため)労務者に駆り出して多くの病死者を出したのは、誠に残念なことであった。敵の爆撃下で峯づたいに鉄道を作ることは想像を越えた難工事であって、日本兵だってたくさん病死したのだから、労務者がどんなに苦労したかは想像に余る。 |
| 当時日本軍はほとんど勝ち目がなくなったアジア解放戦を、なお勝ちぬこうと無理に無理を重ねていた。どうせ負けるならやらない方が良かったとは後からは言えるが、戦争とは、両方が勝とうと思って必死になっているのに、どちらかが負けざるを得ないという、悲しい人類の生存闘争なのであって、負けようと思って戦う者はないのである。 |
| しかしこのような労務者哀史が教科書に書かれると、他の所でも同じようなことがあったように、デッチ上げの物語りがあちこちで作られるのは困ったものである。例えば、西スマトラのブキチンギには断層で出来た峡谷がある。そこの壁に「労務者の穴」という観光の名所が、戦後三十年以上もたってから突然作られた。これを見て帰られた後藤氏によると、その入口には日本兵が銃剣を突きつけてインドネシア人労務者に洞穴陣地を掘らせている銅版画がかかげられている。 |
| ところがこれは、経理将校が現地に往む通いの労務者を雇って掘らせた単なる防空壕であって、これを手助けした一人の軍曹も銃器などは持っておらず、工事は三ヵ月かかったがその間に怪我人や死者は全く無く静穏に行なわれたので、同じ司令部に居ても大部分がその工事を知らなかったほどである。従って、銃剣を突きつけて強制したとか、そのために労務者が病気になるというようなことは有りえなかったのである。 |
| スマトラのアチエ州海岸でも私たちは住民に陣地構築を手伝わせていたが、日本兵は労働の邪魔になる銃器などは宿舎に置いて裸で出掛け、インドネシア労務者の先頭に立って働いていたから、銅版画のような風景はありえなかった。 |
| 戦後アチエの古戦場を訪れた日本兵に対して彼らは「私たちインドネシア人の祖国を守るために、あなた方日本兵は私たちの三倍も働いてくれた」と感謝していたのである。 |
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| 総山孝雄氏とインドネシア調整大臣アラムシャ氏との会談より |
インドネシアの歴史教科書問題
| 1990年1月、総山孝雄氏はインドネシアの調整大臣アラムシャ中将を訪問し、インドネシアの歴史教科書が、戦中戦後の日イ関係について必ずしも公正に書かれていない問題を中心にして会談した。 |
| 実際にみずから戦中を体験したインドネシアの友人たちは、次のように日本軍の占領時代を評価している。 |
| 「種々の末梢的例外的なトラブルはあったにしても、三年半の日本軍の駐留の間、日イ両民族はアジア解放の同志戦友として総体的に協力関係にあった。 |
| 特にそれまでオランダの分割統治政策によって諸部族相反目して団結を知らず、白人に支配されるのを当然の宿命と感じて甘受していたインドネシア人に対して、日本人は団結と民族主義的な誇りを教えこみ、行政のやり方を教え、義勇軍や兵補の教育を通じて戦闘能力を与えてくれた。 |
| これは日本人のインドネシアに対する偉大な貢献であり、これなくしてはわれわれの独立達成はありえなかった」 |
| 戦後に知りあった前駐日大使のヨギ・スパルディ氏も全く同じ考えであった。 |
| にも拘らず独立後に作られたインドネシアの中・高校の歴史教科書では、日本人は邪悪な侵略者にすぎなかったと書かれているので、戦後派の若者は日本人がいくら親切にしても昔悪い事をしたから当り前だと思っている。インドネシアの私の同志たちは、このまま日イ両国の戦争体験者が年とって死に絶えたら、歴史を正す生き証人が無くなってしまうと歎いているのである。 |
| このことを言うとアラムシャ氏は次のように答えた。 |
「独立後沢山のインドネシア人が言葉の通じやすいオランダや米英に留学し、西欧側で作られた太平洋戦争史を学んで帰った人が筆を揃えて歴史を書いたので、日本人のやった良い事が無視されて悪く書かれてしまったことは否めない。
| | 私は日本人に訓練されて独立戦を戦い、日本人のやった良い事も知っており、これからのインドネシアが日本と提携して発展することはきわめて大切だと思うので、留学生をできるだけ多く日本へ送るよう努力している。 |
| 日本軍がやったことで最もよかったのは、義勇軍を訓練して愛国心を教え、軍事能力を与えてくれたことである。それで私は、今回『ペ夕=義勇軍』と題する著書を出版した」 |
| そして表紙の上に旭日旗や日本刀をあしらった色彩も鮮やかな大判の著書が総山孝雄氏に贈られた。 |
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
| 留学生を日本へ送るというアラムシャ氏の考えは、普通であれば良い方法になるはずです。しかし残念なことに日本の歴史教育は普通ではありません。日本軍政についてマイナス面ばかり教育してるため、日本で学んだがために欧米によって歪められた歴史教育が正しかったと認識して帰国する留学生が多く、逆効果になっているのです。インドネシアの報告書にもあった通り、「日本人はやたら謝る人が多くてがっかりする」とインドネシア留学生に言われてしまうのが現状です。この問題を解消するためには、まず日本人が正しい歴史を知ることが必要です。当時の人々の言葉に耳を傾け、日本の教育から改革をしていかなければならないでしょう。これからのアジアとの友好関係にとっても必要なことです。 |
■次回記事
インドネシアの大臣と歴史問題を語る2
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原因4:インドネシア人のプライドのために、日本の名誉とひきかえに、日本と無関係を装いインドネシア人が自ら独立を勝ち取ったということを強調した。
| インドネシアの蘭領東印度時代の副総督H・J・ファン・モーク博士は、戦後インドネシアヘ帰来して、「スカルノ独立政府は日本製の独裁国家である」と宣伝した。これはインドネシアの国民をスカルノ政府から離反させようとするとともに、世界の各国にインドネシアの独立を支持させないようにすることをねらったものである。 |
| この宣伝を反証するために、インドネシア人も日本人もお互いにことさらに無関係を装わねばならなかった。インドネシアが誰からも助けられないで自力で独立したと主張することは、インドネシア民衆のプライドのためにも好都合であったし、民衆のナショナリズムを昂揚するためにも必要であったので、この考えは繰返し強調されるうちに無条件の真実であるかのように錯覚されてしまった。 |
| これを要するに、基本的にはインドネシア人がかれら自身の民族主義的な力と努力によって独立を克ちとったことは事実である。しかし日本人の戦中戦後の援助が大いに有効であったことも否定しえないのであるが、これは闇に伏せられてしまった。こうして日本人の名誉が犠牲にされながらも、とにかくインドネシアをはじめアジアの各国が独立して今日の状態まで興隆しえたことを、私たちは心から喜んでいる。しかし同時にまた、そろそろ日本人の名誉を回復しても差支えない時期が来たように思うがどうであろうか。 |
原因5:戦況が悪化するに伴い民衆の暮らしも悪化し不満が募った。
| 戦後多くの日本人が競って書き立てたように、日本軍の占領下でインドネシアの人びとが多くの苦痛を味わったことは事実である。占領当初のしばらくは、彼らは幸福の絶頂にあった。彼らの明るい笑顔は限りなく私たちを勇気づけてくれた。しかし戦勢が逆転して日本が劣勢になってからは、海上輸送が封鎖されて生活物資が涸渇し、住民は激しいインフレに悩まされた。防衛のために日本人と同じように激しい努力を強いられたことは、植民地支配下の怠惰な生活に慣れ切っていた彼らにとっては辛かったに違いない。 |
| 末期になると連合国は海岸から拉致したインドネシア青年を濠州の学校でスパイに養成し潜水艦で送って来たので、利にさとい華僑や一部の住民の間に通敵分子が現われはじめた。そのために日本軍の憲兵は極端に神経質になってこれを摘発したから、冤罪のために拷問にかけられたり殺されたりしたものもありそうである。従って日本軍が断末魔の苦闘に追いこまれた末期の住民の生活は、オランダ支配の平和だった頃よりもひどかったに違いない。しかしインドネシア人の中に親しい友人がたくさんあってフランクに話しあっていた私は、大多数のインドネシア人は苦しさをかこちながらも、アジア解放戦を勝ち技くための止むをえない苦しさであることを理解し、協力してくれていることを実感していた。 |
| だから戦後派の日本人が現地を訪れて戦争を体験した老人層に会い、彼らの恨み言を引き出そうとして日本軍の罪を算えたてると、彼らは一様に「戦争だったから」仕方がなかったと答えていっこうに恨み言を言わないのである。私白身も当時の住民の苦しさをよく知っていたので、日本が降伏した時には気の荒いアチエ人が暴動を起こすのではないかと心配した。しかしそのようなことは全く起こらず、彼らは日本人とともに涙を流して日本の敗戦を悲しみ、われわれに同情してくれた。 |
| そして連合軍が進駐してそれに対するゲリラ戦が始まるまでは、日本人は夜一人歩きしても全く危険はなかった。戦争をみずから体験した老人層の大部分は、今でもそのような感慨を持ち続けているようである。 |
| しかし、このような事情を無視して戦争末期の苦しかったことや悪かっかことだけを挙げつらえば、日本軍政は悪の塊りになる外はない。が、実際にはインドネシア人は彼ら自身の解放のために、日本人とともに苦しさに耐えてアジア解放戦を戦い、日本が敗戦降服した後にその苦しい努力を独りで続けて独立を達成したのである。 |
原因6:敗戦した日本から賠償金の名目でお金を引き出すためには、日本を侵略者と定義する必要があった。またそう定義づけることが戦勝国に喜ばれた。
| なお、これは少し穿ちすぎた考え方かも知れないが、日本人の戦友であったインドネシア人が殊更に日本の占領による被害を強調した裏には、賠償の問題もあったのではなかろうか。東京裁判で日本人のアジア解放の意図を否認し、日本の南進を単なる邪悪な侵略であると定義した勝者の連合国は、日本に協力して戦っていたインドネシアをも彼らの側に加え、勝者の一員として日本に賠償を請求することを奨めた。独立したばかりでこれから経済建設を考えねばならなかったインドネシアにとって、日本からの賠償が大きな魅力であったことは否めまい。 |
| 賠償を取るためには日本を侵略者だと定義せざるをえない。賠償を多くとるためにはその被害を強調せざるをえない。いくら被害を強調しても、敗戦して平れ伏している日本人からの反論はありえないし、世界を牛耳っている戦勝国には大いに喜ばれる。 |
| 当時の国際情勢下では、日本を弁護することは絶対のタブーであった。当時のインドネシアの為政者たちが日本への非難を競ったのは、インドネシアの国益に添う止むをえない政策であった。 |
| しかしながら、たとえこのような止むをえない歪曲であったにしても、それが公文書に書かれ、教科書に書かれ、口に言われて繰返されていると、いつの間にかそれが真実のように響きはじめるのが社会心理学の通則である。このような推理は私の大切な兄弟であるインドネシア人に対して甚だ失礼な勘繰りではあるが、その可能性を全く否定することもできないように思われる。 |
原因7:日本人の中に、過去の同朋を非難することによって、自分だけ善人になりすまそうとする卑屈な態度をとる者が多くいた。
| このような歴史の歪曲された定義の残存には、日本人自身にも重要な責任がある。これを正すためには、日本人自身がまずその態度を改めねばならない。過去の同胞が祖国のためアジアのために命がけでやった行為を悉く非難することによって、自分だけが善人になりすまそうとするような、敗戦直後の外国の軍隊占領下で生じたような卑屈な態度は、もうそろそろ改めるべきではなかろうか。 |
| 日本人がやたらに謝ると、そう思っていなかった者までがやっぱりそうかと思ってしまう。経済援助をしたり留学生の世話をしたりしても、謝りながらやれば悪い事をしたのだから当然のことと馬鹿にされてしまう。インドネシア人以外の国々でも、謝れば謝るほど相手は非難と要求をつのらせているのが現状である。 |
| 私自身アジア解放の情熱に燃えて南方の戦線に立ち、今もインドネシアに多くの親友を持つ者として、私は当時の日本人の大部分の善意を確信してインドネシア人に接している。日本軍のインドネシア占領史を研究するために日本の上智大学に留学したインドネシアのある大学院学生は、こんなことを言っていた。 |
| 「私が研究テーマとして日本人に日本軍政史に関する意見を聞くとやたらに謝る人ばかりが多くてがっかりする。私はそんな話を聞くためにわざわざ日本へ留学したのではない。私は日本人の主張を聞きに来たのだ」と。 |
| 今地球上ではいろいろな事が起こっている。いつまでも日本人であることを卑下し、諸外国の顔色だけを窺って右往左往するのはもう止めにしたい。戦争とはお互いに相手国を攻撃して殺戮や破壊を与えるものであって、それを罪だとすれば罪人は敗者だけではない。戦中の行為に関して非難したいことは双方にあり、謝罪しなければならないとすればそれは双方の問題である。戦争には勝者と敗者とを生じ、敗者が賠償を払わされるのは止むをえない。しかしそうして平和条約が結ばれたら以後はすべてを清算して対等に戻るべきである。 |
| 戦後すでに半世紀を経て、日本がこれだけの国力を備えたからには、世界の平和と正義とに責任を特つ指導的な国々のーつとして、未来へ向って主導的な発言と努力をするのが、われわれの世界人類への責務ではなかろうか。 |
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| かつて日本は、自存自衛と東亜の解放、つまりアジアを白人の植民地支配から解放するという目的を達成するために、戦争の道を歩みました。しかし目的半ばにして日本は敗戦をしてしまいました。しかし、日本人はあきらめませんでした。インドネシアでは、敗戦後も日本に帰国せず、インドネシア人とともに独立のために命を懸けて戦いました。そして、アジア諸国はすべて白人の植民地支配から解放され、ついにアジアにも平和が訪れました。そのため、いまでもインドネシアをはじめとするアジア諸国では日本軍は英雄として称えられています。 |
| ところが、今から数十年前の教科書には、日本が侵略者であるかのごとく記述がなされていたといいます。さらに、日本のサヨク教育者もこれ幸いとばかりに、この歪曲された歴史をそのまま日本で教育してきたのです。 |
| アジア解放のためにインドネシアで戦った旧日本兵、総山孝雄氏は次のように語っています。 |
| 「苦しい戦争を勝ちぬくためには、住民にもいろいろ苦しい思いをさせたことは事実である。(中略)しかし南進した当時の日本人のほとんどがインドネシアを愛し、その独立を願っていたのも事実である。それを知っていたからこそ、彼らは苦しい戦いをわれわれと共に戦ってくれたのである。今になってその事実が否定されたのでは、アジア解放の使命感に燃えて南方戦線に散った多数の英霊は浮かばれない。青春時代の数年を解放戦に捧げて老いながら、今もインドネシアを愛し続けているわれわれにとって、片思いのまま死期が近づくのはやるせないことである。」 |
| インドネシアのスハルト大統領(当時)は、この教科書歴史歪曲問題に気づき、インドネシア独立と日本人の関係について真実の歴史を調査するよう指令し、政府が動き出しました。そして、歴史歪曲の原因を分析した報告書が作られ、インドネシアで出版されました。その報告書の内容を紹介したいと思います。 |
歴史が歪められた7つの原因(インドネシアの報告書より)
| 私は自分自身の体験から、「日本人は未だかってインドネシアの敵であったことはない。それどころか、日本人とインドネシア人とはアジア解放戦を共に戦った戦友である」と信じている。日本へのいっさいの石油供給を絶とうとしたABCD包囲網を打破せねばならなかったことが日本の南進の直接の誘因であったことは事実であるが、日本人の心を最も強く駆り立てた主要な動機は永年夢みて来たアジアの解放をこの際成し遂げようとする思いであった。実際に矛をとって南進した私たち当時の若者たちは、この崇高な目的のためにこそ情熱の火を燃やし、命を捧げようとしていたのである。(総山孝雄) |
原因1:極東国際軍事裁判(東京裁判)により戦勝国に都合のいいように歴史が書き換えられ、強者の論理で反論を許さなかった。
| 第一の原因は大戦直後の極東軍事裁判の政治的判決である。裁判官の一人であったインドのラジャビノッド・パール博士が「大東亜戦争はアジア解放のための聖戦であった」と強調したにも拘らず、戦勝国たちはその意見を多数決で葬り、「日本はアジア解放などの意志は全く持たない、植民地支配を望んだ単なる侵略者である」と政治的に定義づけてしまった。連合国の軍人や国民を納得させるためには、こうしなければならなかったのであろう。 |
| とにかく、ヨーロッパ人以外の国までをも含めて、世界中の国々の歴史は、この判決の線に沿って書かれてしまった。当時少しでも日本やドイツの善意や善行を述べることはタブーであり、永い間全く反論が許されないまま、このような歴史が世界に定着してしまったのである。 |
| このような状態は占領下の日本で特に著しかった。厳しい占領軍の監視下にある日本人が過去の日本のことを僅かでも良く言うことは、ジャーナリストにとっても個々の文筆家にとっても、社会的な自殺を意味することであった。それ故彼らは、自分たちが例外的に善意を持った稀な日本人であったことを証明するために、自分の民族の罪を数え立てることをことさらに競争せざるをえなかった。 |
| このような状態は平和条約が結ばれて法的には占領下でなくなった後まで続き、何も知らない戦後世代の人びとの白紙のような心を全く一方的に染めてしまった。曲げられた歴史はこうして日本でさえもほとんど定着してしまい、真実の記憶を心の中に秘めつつ公けには発言しえないでいる人びとは、老齢のために次第に死に絶えつつある。このような歴史の歪曲は、当然東南アジア諸国をも含めて世界中に定着してしまった。 |
原因2:日本人を敵視させるデマ情報がたびたび発生し、それに踊らされたインドネシア人が無抵抗の日本人を虐殺し、それに日本軍が自衛のため反撃する事件が起きた。しかし先にインドネシア人による攻撃があったことを報道せず、日本軍による攻撃だけが誇張して報道されていた。
| 終戦後のインドネシアでは、各所に日本人とインドネシア人との争乱が起こったが、その起こり方には一定のパターンがあった。すなわち、まず民衆の日本人に対する敵意をそそるようなデマ情報が流され、それによって興奮させられた青年党員が無抵抗あるいは非武装の日本人を襲って虐殺し、たまりかねた日本軍が命を守るために反撃するのが共通の経過であった。その最大の事例は中部ジャワのスマラン事件と北部スマトラのテビン事件である。 |
| デマを流したのが誰であるかにはもちろん確証はないが、中部ジャワでは、日本人に支援されて来た民族主義者による独立を嫌い、ソ運式の社会主義革命でなければならないとする共産党であると信じられている。 |
| 北部スマトラでデマを流したのは、オランダの特務機関の謀略員であると当時はもっぱら信じられていたが、今になってその酷似した起こり方を見ると、ジャワから潜入した共産党の過激分子であったかも知れない。 |
| いずれにしろこのような争乱が日イ間に起こると、人情の常としてインドネシアでは、日本軍がインドネシア人を攻撃したということだけが、国内に広くしかも誇張して伝えられ、最初の原因であったインドネシアの青年党員による日本人の虐殺はほとんど伝えられなかった。このために、「日本人は独立を妨げる敵である」とする誤った先入観が、何も知らないインドネシアの大衆の心に植えつけられてしまった。これは返すがえすも残念なことであった。このような先入観は、「日本人にはもともとインドネシアを独立させる心算など毛頭なく、いろいろな調子のよい約束はすべて偽りだったのだ」という推論を呼んでしまった。 |
| このような推論された仮説は連合国によって大いに歓迎され、極東軍事裁判の政治目的で曲げられた判決によって裏打ちされることになった。連合国の大部分の歴史家たちは、当然の成り行きとして、その仮説の立証を競った。そしてその記述は、これを学んだ戦後派のインドネシアや日本の歴史家にも影響した。 |
原因3:敗戦後、日本軍がインドネシア人の独立を援助することは連合国から禁止されていたため、抵抗する日本軍から無理やり武器をインドネシア人が奪ったかのような芝居をして、日本軍は武器援助をした。しかし芝居の方が公式記録とされた。
| 敗戦降服した時日本人は、戦犯の脅威の下に、インドネシアの独立を援助したり武器を与えたりすることを連合軍から厳禁されてしまった。そのために日本人がインドネシア人に武器を与える際には、何らかの抵抗をするかのごとく装い、連合軍に対しては必死に抵抗したけれども奪われてしまったのだと報告し、これが公式記録として残ってしまった。他方インドネシア人の方でも、恩義ある日本人が戦犯に問われることを避けるために、その武器はインドネシア人が力で奪ったのだとことさらに新聞に書き立てた。こうして両方の記録がぴたりと符号したので、この説明が完全に正確であるように思われたのは至極当然であるけれども、真実とはまるで違っていたのである。 |
| 例えば、インドネシア独立運動の指導者ムナジ将軍やサムシ博士がマゲタン刑務所に収容されていた柴田海軍中将を訪れ、「インドネシア人が独立戦争を発足しえたのは、日本軍がスラバヤで大量の武器をインドネシア人に与えてくれたお蔭である」と涙を流して感謝したという事実は、ごく最近まで永い間闇の中に葬られたままいずこにも報道されなかった。こうして日本人がひそかに善意を以てインドネシア人に武器を与えたことは、公式の記録には表しようがなかったのである。 |
次回へつづく
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| 戦後の日本社会は、明治以降の近現代史を醜聞の色に染め上げた自虐史観に支配されてきた。しかし私が自分の足で歩き回って見聞してきたアジアには、マスコミが声高に叫ぶ反日の声も、また学校で教わるような侵略の歴史も、ついぞ目に止まらなかった。 |
| 半世紀も日本の統治下にあった台湾では、むしろ戦前の日本統治時代の善政を懐かしむ声が大勢を占め、また日本の戦争犯罪なるものの犠牲者といわれるフィリピンでも、神風特別攻撃隊の武勇が人々に讃えられていた。そしてマレーシアをはじめ東南アジア諸国では、日本軍は解放軍として歓迎されていたのである。 |
| 事実、マレーシア航空の機内誌『GOING PLACES』(二〇〇二年八月号)にも次のように記されている。「日本のイギリスに対する勝利は、長くヨーロッパの植民地でありつづけたアジア人の意識の中にあったヨーロッパ列強諸国の無敵神話を見事に粉砕したのである……」(原文は英語) |
| なぜか日本の学校では教わらない歴史が航空会社の機内誌に記されていたのである。 |
| また韓国においても、冷静な眼で戦前を探訪してみると、常軌を逸した今日韓国の対日感情には疑念を抱かざるを得なくなる。 |
| となれば、毎年八月十五日がやってくると決まってマスコミが騒ぎ立てる反日的なアジアの声とはいったい何なのか。日本軍兵士たちを恨む声や日本軍への誹謗を耳にしないのは、私の取材の仕方が悪いのだろうか。はたまた私が出会った人々は全員が偶然にも親日家だったのだろうか。 |
| そこで日本軍の蛮行とやらを声高に訴える方々にお尋ねしたい。いったいどうすれば日本の侵略を恨みつづける人に出会えるのか。むろん戦場となった国々では、少なからぬ無辜の市民が戦闘の巻き添えとなって亡くなったことは事実である。また日本の統治下にあって屈辱を昧わった人々もいたであろう。 |
| しかしながら、日本のマスコミが大きく取り上げるそうした声は一部の人のものでしかなく総論ではない。おまけに、ある特定の意図を持った日本人とマスコミにそそのかされて声を上げているケースもある。 |
| むしろ東南アジア諸国では、日露戦争や大東亜戦争によって独立を勝ち取った喜びや、日本軍人に対する敬意と感謝の言葉を耳にすることが多いのだ。 |
| 本来はこうした声が取り上げられるべきであり、少なくとも併記されなければならない。にもかかわらず日本のマスコミは、大東亜戦争を絶対悪とする立場を崩さず、大東亜戦争を称賛する声や日本軍人への敬意を完全に封印してきたのだ。 |
| 加えて彼らは、国内で手詰まりとなった古典的なイデオロギー闘争の舞合を中国や韓国に移し、自らが火付け役となって反日の声を煽動してきた。そしていまや日本人は、自虐史観にすっかり汚染され、自らの歴史に誇りを待てない民族に成り下がってしまったのである。 |
| このままでよいのだろうかという素朴な疑問とともに、この一連の取材旅行を通じて見知ったことを記しておきたい。 |
| 戦後六十年、これまで封印されてきた近現代史の真実を開封し、日本人としての自信と誇りを取り戻さなければならないと、改めてアジアの人々から教えられた。それは我々の務めであり、次代を担う日本の子供達のためでもある。日本近現代史の真実を少しでも掘り起こすことができ、アジアの解放に血と魂を傾けた日本人がいたことが伝われば満足である。 |
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