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日中首脳会談は、どうなったのだろうと、今月に入ってから雑誌を読んでみました。 |

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こんにちは、ゲストさん
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日中首脳会談は、どうなったのだろうと、今月に入ってから雑誌を読んでみました。 |
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北京オリンピックになんて行かなくてもいいけど(選手達は行きたいのだろうけど)、日本のチームは応援してしまいますね。 女子バレーはよく見るけど、男子バレーはあんまり見ないので、知らない人が多い。 男子バレーのエースがブサイクだと聞きましたが、どの人がエースだかわからない。 ブサイクだというので、この人かな? うまく描けなかった。似てない。 他にも、爬虫類系の顔の人がいる。 でも、カッコイイ山本ばっかり映っているような気がする。 ブサイクなエースとは、違う人だった・・・。 荻野という人か。 本当にブサイクだ。 でも、もう絵を描く気力がない。 あの顔描くの難しそうだし。 間違えて、絵を描いてしまったアゴの出てる人、ごめんなさい。
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善光寺が、境内内での聖火リレーのスタート地点を辞退したことは知ってましたが、こんなことをしていたとは知りませんでした。 聖火リレーの出発・点火式の行われる4月26日午前8時15分に合わせてチベットの犠牲者に対する追悼法要を本堂で行ったそうです。 粋なことをやるじゃないか!! この法要の様子について、主催者の一人である野池元基氏(「チベット問題を考える長野の会」代表)が、次のようなレポートを書いています。 四月二六日、北京五輪聖火リレーの出発式が開会された八時一五分。時を同じくして、善光寺の本堂では太鼓と鉦の音が響き、四〇人をこえる僧侶による般若心経の唱和が始まった。本年三月一〇日から続くチベット自治区などでの「衝突」によって亡くなったチベット人と中国人を追悼する法要が営まれたのだ。静けさのなかで、三十数人の在日チベット人を含めた四〇〇人ほどの人々がともに祈りを捧げた。 読経が終わると、犠牲者の一人ひとりの名前と年齢、出身地・出身寺院を、善光寺僧侶の若麻績敬史さんが読み上げていった。「ソナム・ラモさん、二三歳、四川省出身」と、高く透きとおる声が本堂のなかに響きわたる。次々に読まれていく人々の年齢は二〇代の若者が多い。尼僧など女性もいる。チベット人と中国人を合わせてかくにんんされている犠牲者の数は約一七〇人(三月二四日現在)。そのうち名前が明らかになっているのは五八人に過ぎない。 名前や年齢を読んだ意味について若麻績さんは、「犠牲者になった一人ひとりが何歳だったのか、例えばどこから来た一九歳だったのか。その一人ひとりの人生が終わっていったんだということを、みんなで感じ合い、命に思いを致すのが、あのお勤めの最大の目的でした」と語る。 善光寺の通常の法要においては、年齢や出身地を読むことはない。法要は二〇分ほどで終わった。その間、本堂に集まった人々は手を合わせ、耳を澄ませていた。泣いている人も少なくなかった。 法要に参加した友人は、「祈りは二項対立ではなくて、人が生きていくという本性に拠ったもの。チベット問題に心を痛めている人たちは、祈りとして自分の思いを表現できたと思う。国家による弾圧への講義を含めて、あの追悼は善光寺にふさわしかった」と評価した。(後略) 中国人犠牲者も同様に追悼する。素晴らしいです。 私は、これを読んで反省しました。 中国人が悪いんじゃないんだよね。中国共産党政府が悪いんだよね。 この法要の主催者は、 「スチューデンツ・フォー・ア・フリー・チベット日本」(代表:在日チベット人のツェリン・ドルジェ氏) 「チベット問題を考える長野の会」(代表:野池元基氏) 協力 善光寺の僧侶有志でつくる「平和を願う僧侶の会」 チベット弾圧への抗議活動をするチベット人って、中国人のことを悪く言わないんですよね。 チベット仏教の崇高さが伺われます。 レポートは、こう続きます。 翌日の新聞は「沿道混乱」や「悲しい対立」などの見出しを揚げた。だが、それを引き起こした根本的な原因は、沿道に集まったチベット人や中国人にではなく、チベット弾圧を改めることなしに、警備強化と煽動によって五輪の成功を目指す中国政府の政治姿勢にこそあるのではないか。 このレポートが掲載されたのが、「週刊金曜日」だというから、びっくりしました。 私は、「正論」7月号から孫引きしたんですが。 しかし、犠牲者の中で名前が明らかになっている人が少なすぎる。
明らかにしない理由は、なんなんだろう。 |
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今日の産経新聞の1面記事に載ってました。 証言したのは、座間味村で民宿などを経営する宮平英幸さん(78)。沖縄戦(昭和20年3〜6月)の当初、15歳の防衛隊員として、同島に駐屯した海上挺進隊第1戦隊長、梅沢裕少佐の伝令役を務めていた。 宮平さんによると、同島に米軍が上陸する前日の昭和20年3月25日午後10時ごろ、野村正次郎村長、宮里盛秀助役ら村三役と国民学校長、役場職員。女子青年団の宮城初江さんが、梅沢少佐のいる本部壕を訪ねた。 そこで、宮里助役らは「明日はいよいよ米軍が上陸する。鬼畜米英にけだもののように扱われるより、日本軍の手によって死んだ方がいい」「すでに、住民は自決するため、忠魂碑前に集まっている」などと梅沢少佐に頼み、自決用の弾薬や手榴弾、毒薬などの提供を求めた。 これに対し、梅沢少佐は「そんなものは渡せない。われわれの役目はあなた方を守ることだ。なぜ自決させなければならないのか。ただちに、集まった住民を解散させて、避難させよ」と命じた。 村側はなお懇願し、30分くらい押し問答が続いたが、梅沢少佐が「おれの言うことが聞けないのか」と弾薬類の提供を強く拒否したため、村の幹部らはあきらめ、忠魂碑前に向かった。 同日午後11時ごろ、忠魂碑前に集まった約80人の住民に対し、野村村長は「部隊長(梅沢少佐)に自決用の弾薬類をもらいにいったが、もらえなかった。みなさん、自決のために集まってもらったが、ここでは死ねないので、解散する」と話した。このため、住民たちはそれぞれの家族の壕に引き返したという。 宮平さんは「私は、本部壕でも村側と梅沢隊長とのやりとりと、忠魂碑前での野村村長の指示をすぐ近くで聞いていた」と話す。 その後、村長ら村三役や国民学校長らとその家族はそれぞれの壕で集団自決したが、宮平さんら多くの住民は自決を思いとどまり、翌26日に上陸してきた米軍に捕らえられるなどした。 宮平さんは米軍の迫撃砲で左足を負傷し、自分の家族の壕に戻ったところを米軍に見つかったという。 宮平さんはまた、梅沢少佐の元部下から生前に送られた手記を保存している。そこにも、村三役と国民学校長らが自決用の劇薬、手榴弾、ダイナマイトなどをもらいにきたが、与えるべき武器、弾薬類がなかったことが書かれている。 宮平さんは戦後、これらの事実を話す機会がなかったが、「昨年、集団自決をめぐる教科書の記述が問題となり、真実を伝えておきたいと思った」と話している。 沖縄の集団自決の軍命令はなかったことは、多くの人がわかってると思ってたんですけど、軍命令があったと思ってる人もまだまだいるんですね。 なんで、自分の父祖たちをそこまで貶めようとするのか、日本の悪口ばかり言う人の気持ちがわかりません。
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http://www.nicovideo.jp/watch/sm1205870 |
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