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つづき 金次郎と弟子たち
「実は、私を養子にと言ってくださる家が二軒ございます。一つは小田原の金持ちの小西家、今一つは箱根湯本の貧しい福住家でございます。どちらを選んだらよいものか決めかねております」
「なるほど。金持ちの家にいってもいろいろ窮屈で今まで学んだ報徳がやりにくいかもしれんなあ。貧しい家を興すのもやり甲斐のあるものだよ」
と、金次郎は福住家にいくことをすすめました。
政吉は福住家の養子になつて、立派に福住家をたてなおしました。湯本で一、二を争うほどの温泉宿にしたのです。湯本村の名主もつとめました。
後に政吉は正兄(まさえ)と名をかえ、温泉宿の帳場にすわりながら、金次郎の話を書きとめておいたものを整理して「二宮翁夜話(にのみやおうやわ)」という本を著(あらわ)しました。
同じく金次郎の弟子で正兄の先輩にあたる人に、富田高慶(とみたこうけい)という人がおります。高慶は奥州相馬藩の武士で、なんとか藩をたてなおしたいと、江戸に十年も留学して学問に励んでいました。金次郎の評判をきくと、彼は書物を売って旅費をつくり、桜町へやってきました。
しかし金次郎は、
「きけば江戸の学者だそうだが、わたしは百姓だ。百姓が学者に会っても仕方なかろう」
といって会おうとしません
「ぜったいに先生にお会いできるまでは帰らないぞ」
高慶は決心して桜町に住みつきました。寺子屋をひらいて近所の若者や子供たちを教えながら、金次郎に会える日を待ち続けました。
四か月もたったころ、ようやく高慶は金次郎から会おうという知らせをうけました。
高慶が金次郎の前にでると金次郎は言いました。
「あなたは学者だそうだが豆という字をごぞんじかな」
「はい」
「では書いてごらんなさい」
高慶は「豆」という字を毛筆で達筆に書きました。
すると金次郎は
「あなたの書いた豆は食べられないなあ」
といって一つかみの豆を取りだして言いました。
「わたしの作った豆は食べられますよ」
高慶は金次郎が何を言いたいのかわかりました。理屈をこねるだけでは天下を救うこともできない、実生活をよくすることもできない、実行することこそ大切であるということを教えられたのです。
高慶は素直な心で金次郎のふところに飛びこみました。そして金次郎のかけがえのない弟子となります。後に金次郎の娘文子と結婚し、「報徳記」を書きました。この本は金次郎の少年時代から、幕府の役人としてとりたてられ、天領地日光のたてなおしを担当するまでの一生を、伝記として著したものです。
なぜ金次郎は高慶にすぐ会わなかったのでしょう。
「学者という者は塗り盆のようなもので、新しいうちは水をはじいて吸収しない。四カ月もたてば大分塗りもはげたころであろう」
と言っているように、自分の話がすんなり受けいれられる時まで待っていたのでした。
金次郎のもとには他にも多くのすぐれた弟子が育って、金次郎の死後も報徳の教えを人々に伝え続けました。
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