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相馬藩仕法(そうまはんしほう)
富田高慶(とみたこうけい)が金次郎の弟子となったのは、天保十年(一八三九年)のことです。高慶の精進ぶりはすばらしいものでした。すすんで木綿(もめん)の粗末な着物を着、三度の食事は飯と汁のみで、朝早くから夜遅くまで、金次郎を助けて働きます。
そんな暮らしの中で、高慶は苦しんでいる故郷の相馬藩の人々のことを忘れたことはありませんでした。
高慶は金次郎に代わって相馬藩に行き、分度を立てるための調査書をつくりました。それは、過去百八十年前まで遡(さかのぼ)ったものでした。これには金次郎も驚き、
「過去二、三十年の年貢もわからなくなっている藩が多いのに、百八十年前まで調べられるとは……。これで天の自然を探り分度を立てれば相馬藩の復興は必ず成るであろう」と賛嘆しました。
名君相馬光胤公(めいくんそうまみつたねこう)を戴(いただ)き、忠義(ちゅうぎ)の心いっばいの草野正辰(くさのまさとき)、池田胤直(いけだたねなお)両家老の熱意と粘りが実って、弘化三年(一八四六年)、いよいよ相馬仕法が始まることになりました。
先ず、調査書をもとに相馬藩の分度が立てられました。年間約六万六千俵です。
次に、どの村からはじめるか決めなくてはなりません。金次郎の考えは、僻地(へきち)のものすごく貧しい村に時間をかけていては、ほかの村に影響を及ぼすことが遅れるので、藩の中央部に位置する活力のある村からはじめるのがよいというものでした。
「ここに布があるとして、布の一ヶ所を持ちあげると他のところもつられてあがるでしょう。それと同じことです」と金次郎は言いました。
先ずは光をともして、その光で周りも明るくしていこうという考えです。
それでも金次郎は、押し付けるということはしません。よくなりたいと村人が切実に思うまで待ちます。宇多郡成田村(うたぐんなりたむら)、坪田村の代官助役に高野丹吾(たかのたんご)という者がいました。彼は池田家老から金次郎の教えをきいて、心から感銘しました。村人も高野の話を聞いて、。是非とも成田村、坪田村で、このご仕法をやって頂きたいと思いました。土台金として自分に出せるだけの米や金を差し出す者もいます。
成田村、坪田村は、時問もかかる貧しい村だったのですが、高野や村人の懸命さは、金次郎の心をうちました。
「どんなにいい方法があっても、そのことをやりたいという燃えるような思いこそ大切だ。たとえば、馬を泉のそばにつれていって、うまい水だから飲め、さあ飲めといくら強いても、馬が水を飲みたいと思っていなければ飲ませることはできない。それと同じで、住んでいる者が村をたてなおしたいと切実に願わなければ、事は成らない」
金次郎はいつもこう言って、たてなおしを頼みに来る者がいても、「お殿さまから村人まで、ひとつ心でそれを望んでいるのか」
「そのためには向こう何年も、うまいものもがまんするような辛抱をしなければならないのだぞ。それでもよいのか」
「弟子になりたい、報徳を学びたいと、いっても本気なのか」
と、その決心が本物なのか、何ヶ月も何年も待たせて、機の熟すのを待っ人でした。その金次郎が、「成田村、坪田村は難村ではあるけれど、村人の熱意はそれに勝るもの力ある」と言って、高慶を金次郎の名代とし、この地から相馬仕法をはじめることにしたのです。
つづく
財団法人新教育者連盟 「二宮金次郎」より
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