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つづき 大和理念としての日本国
私の限りなく愛すると云った「日本的なもの」とは、日本の国号が過去に於いてありし如く「大和」であると云うことである。私の限りなく愛すると云った「日本的なもの」とは、日本の国旗の標識が○であるように、すべてのものと手をつないで真に丸く、円満完全に、○の中が空であるが如く、虚心無我にして、苟(いやしく)も私心を差し挿まない大調和な心と、それより発し育てられ来たった大調和の事々物々を指すのであつて、好戦的と云うこととは全く反対(うらはら)のことを指すのである。私の信念に於いては本当に「日本的なもの」即ち「大和の理念」があらわれたら、あの戦争は起らなかったに相違ないのである。今後日本が国連の一員として平和を護って行く上に最も大切なのは「大和」の理想の培養であらねばならぬ。形の世界は心の世界の反影(リフレクション)であるから、心の世界に「大和」の理念が、真に「日本的なもの」として、換言すれば、「日本本来の姿」として、確立せられなければ、形の上にも真の「平和日本」は確立せられないのである。
「日本的なるもの」とは、必ずしも単に過去の現象歴史の上に於いて、日本人が行為し来った行為の中に現れているものではない。またその総和でもない。「日本的なるもの」は、他の「ヨーロツパ的なるもの」と同じく、まず「理念」の世界に於いて生み出され、それが徐々に歴史的現実となって具現化し出づるものであるから、歴史的現実を跡辿(たど)って行くとき、その中にも発見されるが、発見されるすべてが「日本的なるもの」と云うことは出来ないのである。現象界は「理念」の現実化の世界であると同時に、それは「妄念」の具象化でもある。真象(理念の具象化)と、偽象(妄念の具象化)とが交々(こもごも)相錯綜しているのが歴史的現実である。日本の歴史全部を日本的理念の表現だと考えることは、真妄を甄別(けんべつ)しないことになる。何処の国に於ける現代の市井の出来事にも、殺人も強盗もあるが、それが「人間なるもの」の理念の表現ではなく、迷える一部人の妄念の表現であるのと同じように、歴史的現実にあらわれたる日本民族の諸相の中にも真に「日本的な理念」の表現であるものと、そうでない迷える人間の妄念の表現であるものとがある。それをハツキリ区別し、理念の表現であるものを発見し、妄念の表現であるものを非日本的なものとして排除し、正しく理念(又は理想)を生き切って行くべく努力するところに、人間生命の知性の純化と、意志の鍛錬と感情の陶冶(とうや)とがあるのである。それは可成り難かしい仕事であるけれども、その難かしい仕事を努力して成し就げて行くところに人間の魂の向上があるのである。
〈中賂〉
大和の心こそ真の日本の国であり、国とは形ではなく、「心」そのものが日本の国である。そして具体的「国」なるものは「心」の展開であるが故に、大和の「心」が真に深く行じられたとき、真の日本の国は生れるのである。まだ、謂わば真の日本の国は生れていなかったのである。真の大和日本(理念の日本)は理念の奥深く眠っていたと云うほかはない。戦争をした軍国日本の如きは真の日本を遠ざかること甚だしかったに拘らず、僭上にも日本国と号した。併(しか)しそれは大和国ではなかったのである。今や大和国は「理念」の底深きところからやっと生れ出でようとしているのである。軍国主義のニセ日本の敗北が、理念の底に眠っていた「真の大和の国」に対してその目覚めるべき契機を与えてくれたのである。軍国主義日本の敗退を嘆いてはならない。吾らの実相の「平和日本」は今理念の世界から顔を出しつつある。太陽は今昇り始めたばかりである。国民よ、この幼い日本愛し育てようではないか。 (昭和二十一年)
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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