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人間は何処に在るか
皆さんのような政治問題、時事問題等について専門家でいらっしゃる方々の前で憲法の話などする柄ではないのでありますが、この間花見達二先生の時事間題の三部作が出来上がった祝賀の集りに是非とも話してくれと一言われまして、日本国の憲法の背景にある哲学はどういうものであるか、何処に誤りがあるか、と云うようなことを話しましたら大変喜ばれまして、今まで憲法の問題を取り上げて来た人と又別の立場から論じている点があるので是非とも日本国民会議で話してもらいたいと云う要請がありました。一応辞退したのでありますけれども、当番団体の誰かが話すことになっているので是非話してほしいと云うので、敢えてこの席を汚した次第であります。
禅宗の『無門関(むもんかん)』という本があります。これには四十八則の公案(こうあん)が載っているのであります。御存知の通り公案というのは悟りに導くところの問題の提起であります。この四十八則の公案の中で最も重大な公案が私は二つあると思うのであります。その一つは第六則の世尊拈華(せそんねんげ)という公案であります。それからもう一つは第八則の奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)という公案であります。この奚仲造車の公案には「奚仲造車を造ること一百輻(いつぴゃくふく)、両頭(りょうとう)を拈却(ねんきゃく)し、軸を去却(こきゃく)して、甚麼辺(なにへん)の事をか明む」と云うことが書かれているのであります。
奚仲というのは支那古代の人でありまして、初めて車を発明した人であると言われているのであります。その奚仲が初めて一百台の車を拵(あつら)えた。ところがどうしたのかその車の「両頭を拈却(ねんきゃく)し」即ち両方の頭を拈(ね)じりちぎり、「軸を去却して」即ち心棒を引き抜いて取り外して、部分品をバラバラに分解して、そして何か紛失したと見えて捜し廻っているのであります。それで或る人が「奚仲さん、あなたは何を捜しているのですか」と問うたら、奚仲が答えて言うのに、「今迄ここに車があったのに何処かへ行ってしまった。車は何処へ行ったのだろうと思って捜しているのです」と。これが公案であります。
果して車は何処に在るかと云う問題であります。皆さんはその「車」が何処に在るとお考えになるでしょうか。部分品を幾ら捜し廻っても「車」は無いのであります。これは公案でありますから単に車の問題ではないのであって、人間の悟りの問題であります。「車が何処にあるか」と云う問題は言い換えると「人間は何処にあるか」という問題にもなるのであります。
人間をバラバラにして部分となし、腕を此処へ放り出してその腕に対して「お前谷口か」と問うても、その腕は返事をしないのであります。腕という部分品には谷口はいないのであります。それでは両脚はどうであろうかと、又両脚を切って其処へ放り出してその両脚に対して「お前谷口か」と問うても返事はしないのであります。又胴体を切って其処へ放り出して尋ねて見ても同じ事であります。
「いや谷口は頭で考え目で見て口で喋る、だから谷口はあの首から上にいるんであろう」という訳で、この首を切って其処へ差し出して「お前谷口か」と問うても、もう其処には谷口はいないのであります。部分を幾ら捜し廻っても人間はいないと云うことなのであります。果して人間は何処にあるかと云う問題が奚仲造車の公案に含まれている問題であります。
禅宗の寺へ行って弟子にしてもらおうと思って、和尚に面会して「どうぞ弟子にして下さい」とお願い申したら、その寺の老和尚が「お前何処から来た」と言う。「はい、私は横浜の何処其処の者であります。其処から参りました」と云うような返事でもしたら、「もうお前帰れ!」と云う訳で弟子にしてもらえないと云うことであります。
禅宗で「お前何処から来たか」と言うのはそのような横浜とか東京とか云う所から来たか来ないかと云うことを問うているのではないのであります。「お前の生命と云うものは何処から来たか」と云う意味なのであります。それでこの“奚仲造車”の公案は、「車は何処から来たか、人間は何処から来たか」「車は何処に在るか、人間は何処に在るか」と云う問題の提起ですね。単刀直入に「車は何処に在るか」と云う問題に対する解答を致しますと、それは車を発明して製造した奚仲の心の中にあるのであります。その心の中にある車は部分ではないのでありまして、」車全体なのであります。心の世界に先ず全体が造られて、その心の世界に在る全体の設計又は構造と云うものが具体化して来るのであります。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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