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(何故憲法を変えなければならないか)
ところで高天原と云うのは地球上の一地域の名称であるかのやうに思ってゐる人もありますけれども、これは決して、地球上の一地域ではありません。
「高」は高く無限につづく縦の線「↑」をもって象徴する時間であります。「原」は横ひろがりに無限につづく空間をあらはす語であります。「天」は「天球」即ち球状宇宙を指してゐるのであります。「アマ」の語源は「顕(ア)れる円(マル)い」であります。時間と空間とが十字交叉して円(まる)くあらはれてゐる球状宇宙が「高天原」なのであります。即ち宇宙全體に鳴りひびいてゐる神(即ちコトバ)が天之御中主神なのであります。
ところで、天之御中主神と云うと、日本の神で、その固有名詞なんだらうと考へる人もありませうが、これは固有名詞ではありません。「古事記」の神代の巻に於いても固有名詞に於いてはアメノコヤネノミコト又はアメノフトタマノミコトなどの如く「天兒屋根命(あめのこやねのみこと)」「天宇受賣命(あめのうずめのみこと)」「天太玉命(あめのふとたまのみこと)」として「天之(あめ〇」書かれてゐないのであります。然るに「天之御中主神」に於いてのみ「天之」と「之」の字が挿入されてゐるのは、固有名詞ではない(しょうこ)でありまして、「天之」と謂うのは、「天球の」即ち「宇宙の」と云う意味、「御中(みなか)」とは「御」は美称ー尊ぶ言葉ーであり、「中」は「中庸」にある「喜怒哀楽未(いま)だ發せざるを中(ちゅう)と謂う」とあるところの「未發(みはつ)の中(ちゅう)」であります。「喜怒哀楽」は現象として發する諸々の現象を指すのでありますから、宇宙の諸々の現象の發する根元の「主」たる神と云う意味が「天之御中主神」であります
中心帰一の日本民族精神
諸物の根元に、「中(みなか)」をみとめ、それを「主」として仰ぎ(み)て、常にそれに還元するところの日本民族の特殊精神があらはれてゐるのであります。無論、これは日本民族だけではなく、支那に於いても「大極より両儀(陰陽のこと)生ず」と云う風に、事物の根元に、「一」なる大極又は「中心位」をおいてゐる点は、日本も支那その他の諸民族も同じことではあります。 併(しか)し、支那その他の諸民族に於いては、それを生活に実践しなかったのであります。支那に於いて「中」を根元不易のものとせずして易革命を常態としてゐましたので「大極より両儀生ず」と云い、「喜怒哀楽未だ發せざるを中と謂う。發して節にあたる是を和と云う」と云うやうな宇宙の真理を「」せんめいしたところの哲学は発達してはゐましたけれども、さてそれが生活の上には実践されてゐないで生活そのものとは遊離した状態におかれてゐたのであります。
それが日本では国のありかたの上に、その真理が実現してゐたのでありまして、特に日本が真理国家であると云うことが出来るのでありまして、そこが他の国と異なるので、まことに尊いのであります。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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