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部分が全体の意志から断絶するとき死を招く
昭和44年
部分に主権があり、全体に統治の主権がないということは、これは人体にたとえれば、胃袋には胃袋自身の主権があり、腎臓には腎臓自身の主権があり、心臓には心臓自身の主権があり、おのおの自治的に生理作用を営んでいるのであるという考え方に似ているのであります、私は札幌医大の和田教授に心臓移植の手術を受けた宮崎信夫君のことを思い出すのであるが、あの心臓移植は、人体は部分品の集まりで構成されているという「唯物論的人間観」に基づいて行なわれたものであります。すなわち、人体は部分品の集合体であるから、その一部分品なる心臓に故障があれば、他の人の部分品である健全なる心臓を移植してつぎ合わせれば人間は生きるであろうという考え方で心臓移植は行なわれたのであります。そこに根本的間違いがあるのであります。蛙の切除した心臓をリンゲル氏液の中で生活させて置くと、その心臓はある期間一定のリズムで摶動をつづけているのであります。心臓それ自体にヘッドという申枢があってそこから送られる刺激によって心臓全体は鼓動をつづける。人間の心臓も心臓それ自体に中枢(主権の座)があって、その中枢が生きている限り心臓は一定のリズムをもって鼓動をつづけるのであります。その摶動のエネルギーは、入体に移植して血管をつなぎ合わせれば、血液を通じて送られて来る養分によって補われます。この移植手術に於ては主要なる血管は適当に縫い合わされますから、心臓自身を動かすエネルギーは得ることができるけれども、大脳中枢から送られて来る指令を伝達するための神経は、その繊細なるものが網の目のように複雑に交錯していますので、現代の外科手術ではそれを継ぎ合わすことができない。それゆえに、人体のある部分に急激に血液を送って大いなる筋肉力を発揮しなければならぬ時にも、大脳からのその指令を心臓は感受することができないで、どんなに強力な力を必要とする時にも、心臓は心臓自身の中枢の刺激だけで同じリズムで動いている。そこで急に大なる力を必要とするとき心臓は全体を生かす働きを発揮することができないのであります。それゆえに宮崎信夫君は心臓移植後、元気になって、ある夜テレビを見て楽しんでいたが、間もなく喀疾(かくたん)が気管にからまって来たのを咳によって排出しようとしたが、喀疾を排出するだけの力を心臓が送ってくれないので、喀疾が気管につまって死んでしまったのでした。
部分をどんなに巧妙につなぎ合わせてみても、その部分が全体を支配する統制から断絶している場合は、このように全体の死を招いて、同時に、全体の構成要素たる部分も一緒に死んでしまうのであります。
このことは国家の場合も同様であります。国民のうちのある階級が、国家の統制から断絶して自分だけの繁栄を目的として、国家に反抗している場合には、これと同様の結果を招くのであります。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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