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国民の権利の根拠はどこにあるか
だいたいこの占領憲法が国家の権利に優先して個人の権利が一層尊重されているのは、いかなる根拠によるものだろうか。
"権利""権利"と個人の飽くなき欲望の満足を主張して互いの欲望の主張が衝突するところに闘争が起るのであり、予想した欲望が充足されない時、欲求不満が起り、政府を怨み、国家を憎む不逞(ふてい)の国民を産みだすにいたるのであります。
私の尊敬している一燈園の故西田天香師は「許されて生きる」とか「"お光"に生かされて生きる」という語をよく使われたものであります。"お光"というのは"神"または"仏"の別名で、一宗一派の宗教に使う文字を故意にさけて、こうした通宗教的名辞を用いられたものであると思うが、人間が地上に生まれて来たのは、自分の力で自己主張して生まれて来たのでなく、「生まれる」という受身の語がおのずから示すが如く、生まれて来た( I was born) のである。人間はその出生の根源が自分の力でなく、われを産み給うた神の力によるのである。したがって、根源的に、人間には何の権利もないのである。「自分」から出て来たものは何一つなく、神の力によって生まれ、父母の恵みによって生かされ、大自然と衆生との御恩によっていろいろの生活の必需物を供給されて、その生存を維持しているのである。
「これだけは誰の世話にもならない、本来自分のものだ」というものはどこにもないのであります。それなのにどうして、占領憲法の第二十五条のように「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」などと、そんな権利を主張する根拠があるのだろうか。これは権利なのではなく、「そのような健康で文化的な生活を創造するの義務を負う」でなければならないのであります。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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