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はたして"人類普遍の原理"がこの憲法にあるか
ところで、新憲法の前文には「人類普遍の原理」に基づいてこの憲法が制定されたものであると宣言されているのであるが、この憲法に盛られているいわゆる"民主主義の原理"がはたして「人類普遍の原理」であろうか、はなはだ疑わしいと言わなければならないのである。
この現行憲法に盛られてあるいわゆる"民主主義の原理"なるものは唯物論であり、素粒子がすべてに先行して、それが結合して分子となり、さらに分子が結合して有機体となるように、事物の組成分たる構成単位が主権をもつという考え方である。そのような唯物論を国家にあてはめて、国家の構成単位であるところの国民ひとりひとりに主権があると定めているのであるから、国家の部分としての国民が幸福(この憲法では唯物論的な肉体的快楽を国民の幸福という)であれば、国家はどうでもよいというように定めてある憲法なのである。そこで国家を衛(まも)る自衛隊の存在も憲法違反だとして法廷で抗争できるような憲法になっているのである。
『無門關』第八則の"奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)の"公案の如く、車をバラバラに部分品に分解して、"車"はどこにあるかと探しても、"車"は見つからないと同じように、国家を国家の形成部分要素たる国民にバラバラに分解して、国民に主権をもたしたら"国家"は見つからなくなる。"国家"が見つからなかったら"愛国心"はなくなる。現に日本国民の"愛国心"は非常に衰退しつつあって、テレビの街頭録音で、あらゆる階層の日本国民に「あなたは国家と家庭とどちらが大切に思いますか」という質問をしたのに対する回答を聴いていたら、回答者の八〇%は「国家よりも家庭を大切に思う」と答えたのに驚いたのであった。
これは「部分が先にあって、全体は部分の結合によってできた」という唯物論的国家観が、現行の憲法を貫いているからである。しかし、そのような「部分が先にあって、全体は部分同士の相談によって成立した」というような唯物論がはたして人類普遍の原理であろうか。無機物の化合による鉱物的結晶は部分同士の機械的結合によって成立するかのように観察できるかもしれないけれども、"有機体"特に、"生命体"の顕現には、部分分子の機械的な化合現象では成り立たないのであって、部分の結合を、一層高次なる「結合を指導する霊」換言(かんげん)すれば「理念」が天降って来るか、理念が内在するかして、部分と部分との結合する形を一定の霊的模型に従って指導することによってのみ、"個性ある生物"ーバラはバラとして、藤は藤としての個性ある植物形態や花の形をつくり上げ、また豚は豚として、熊は熊として、人間は人間として等……の個性ある動物の形態をつくり上げるのである。だから人間は、豚を食っても、熊を食っても、植物の根葉(こんよう)を食しても、すべてそれらの分子結合を指導し変化して、人体をつくり上げるのである。
すべてこのように、単位分子の結合だけでは、有機的生命体は生まれることはなく、有機的生命体は必ず、その単位要素を結合するのに、「理念的な存在」(霊)が先行し優先するのである。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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