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天皇親臨の下に審議九ヵ月、起草に四年を要した明治憲法
昭和四十四年
明治十七年三月明治天皇は伊藤博文に憲法起草を命ぜられ、爾来四年間、伊藤公の下に井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の三俊英が調査、起草に肝胆(かんたん)を砕き、二十一年四月漸く草案完成、直ちに枢密院が創設されて同年五月八目より憲法草案審議の御前会議が開かれ、皇室典範(同日より六月十五日まで)憲法(六月十八日〜七月十三日)議院法(九月十七日〜十月三十一日)衆議院議員選挙法(十一月五日〜十二日)貴族院議員選挙法(十二月十三日〜十七日)と八力月間は現在の神宮外苑明治記念館で開かれ、翌年一月には新皇居表二階で開会、明治天皇は一回の御欠席もなく終始御親臨、この間十一月十二日には会議途上に皇子昭宮薨去(あきのみやこうきょ)の報告があったにも拘らず、明治天皇は会議の続行を命ぜられ、当日審議中の一条議了ののちようやく入御されるという御精励ぶりであった。
日本自由主義研究所発行の旬刊新聞「国民の声」五月十五日号の杜説にも、いま日本に起こっている諸悪の根源は、この占領憲法とそれに基いて日本教育を牛(ぎゅ)じっている日教組の教育方針にあることを次のごとく述べているのである。
日本国内の諸悪の根源は占領憲法にある
いまの日本に生起しているもろもろの奇現象と怪現象、それに、悲しむべきもろもろの諾悪の成因は、主として新憲法と日教組による日本教育の壟断(ろうだん)である。この事実は、科学者の冷静さとその狂いのない分析をもってすれば、きわめて容易につきとめることが出来るはずだ。
現代は巷に宣伝の言葉が氾濫している。それは特定のイデオロギーや狂信に裏づけられ、集団的な圧カをもって大衆に迫っている。そこには、科学する心はいささかもなく、真理の追及心祖ど微塵もみとめられない。
ただあるものは党利党略と身勝手な狂信の押しつけだけである。
今日の日本にとって、新憲法が荷厄介な存在になって来たことは、少しでも曇りのない鏡で物事を見ようとする人たちにとっては、いとも簡単に理解し得るところである。もともとこの憲法が、占領軍によって日本弱体化の主要な武器として押しつけられたことは説明するまでもない。共産党や社会党などの左翼独裁勢力が、この憲法を暫定的に(?)金科玉条(きんかぎょくじょう)として堅持しているのもその点に理由がある。日本を弱体化して混乱激成し、一挙にめざす革命に導くのにこれほど便利ものはない。かれらは口を開けば“護憲”を言うが、それはここ当分、この憲法を利用したいからに過ぎぬ。もしかりに、めざす革命に成功すれば・かれらは弊履(へいり)のごとくこれを捨て去るのである。事実は、真ツ赤ないつわりの“護憲"なのだ。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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