|
人間を物質的単位として取扱う民主主義
昭和四十三年
戦後、アメリカが日本に移入した民主主義というもの最大の欠点は、それが霊的民主主義でなくして、唯物論的民主主義であるということである。
唯物論というものはすべての存在を素粒子又は分子・原子に還元して考える。それが水素であり、ヘリウムであり、酸素であり、炭素であるということは、原子核の構成とその周囲を旋回する電子の数によって定まる。それによって質量がはかられ原子番号が付せられる。いろいろの性質の元素があるけれども、それは単に素粒子の数と配列の問題であって、みんな同じ単位の寄合いである。そこには特に何元素が高貴なというわけはないのである。それはただ数量的関係に過ぎないのである。
こういう根本的な考え方が唯物論的民主主義の、その底には横たわっているのである。それゆえに凡ての人間は平等である。すべて物質の分子・原子の集合体によって成立っている肉塊が人間であると、そこでは考えられる。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」「王侯将相豈(あに)種あらんや」それゆえに君臣の義も、親子兄弟の義理もない、長幼の序もない、師と弟子との間には情誼もないのである。
学校の教師というものは「学」を売り物にする商売人であり、学生は「学」を買ってやるお客様である。「お客様(学生さま)の注文通りに、『学』の種類や、販売法を変更せぬと、その『学』を買ってやらんぞ。そして学園を封鎖して、学園という商売を成立たせぬようにしてやるぞ」こう言われると、「学生というお客さまのいうことは誠にもっともでございますから、学生さまのおっしゃる通りにカリキュラムも変更し、『学』の販売値段も値引きいたし、学販売の店員(教師)も取り替えまして、学生のおっしゃる通りにいたしますから、学園という商売を開かして下さいませ」と、学販売業(学校)の番頭(学長)が丁寧にお辞儀をして、学園の封鎖を解除してもらったのが、芝浦工業大学である。東京大学もそれに多少似たところがある。すなわち学長代行(学業販売の番頭)がお客様の御要求七ヵ条(七項目確認書)をことごとく入れましてお客様なる学生の要求を容れるには容れたけれども、まだ学販売業側の態度が悪いといってお客様の一部が暴れまわっているというのがその現状である。
ロシア革命は、ケレンスキー将軍が、「将校も兵卒も平等の人間であるから、今後、兵卒は将校に敬礼しないでよろしい」といったことから端を発したと伝えられている。すべての人間は「物質の塊にすぎない肉体」であるから、どんなに偉そうに見えても皆平等である。それは原子の数と配列とが異り、ただ原子番号が異るだけである。それなのに社会の上位にいて権カ機構を傘に着て威張っている奴は倒してしまえー共闘派全学連が東大の入試を阻み、教育の文献や資料を破棄し校舎に大破損を与えているのは、東大が過去の帝国大学的権力機構の残滓(ざんし)をまだ引きついでいるところがあるから、帝国大学的歴史の伝統的なものを全然切りはなして「人民のための人民の教育の場」である新学制をつくって、「革命のための有能なる働き手」となる学生を育成する教育を行うようにすると共に、その学校建物をやがて来る革命市街戦に於ける須要の拠点とし砦としておくためであるのだ。
谷口雅春著「私の日本憲法論」
|
全体表示
[ リスト ]




