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歴史と伝統を否定する唯物論
唯物論的民主主義においては、すべての「伝統」とか「歴史」とか「精神的連続」とかいうものは否定せられる。それは人間をも"物質的単位"をもって計上して、歴史とか家柄とかいう、精神によって伝わる価値を否定してしまうのである。なぜなら、「物質」には歴史はないからである。過去に「水素」であったものが核磁合によって新たにヘリウムになったとすると、そのヘリウムは、過去の「水素」から断絶して何の関係もない新しきヘリウムなのである。今、水素から原子転換してヘリウムになったものも、過去からズッとヘリウムであったものも、それは同じ価値であって差等はないのである。すなわち物質は常に、「歴史から断絶」するものであり、ただ素粒子の数量的関係によって価値が定まる。物質を構成する素粒子の数の少いものは質量が軽いし、素粒子の数の多いものは質量が重いのである。その元素が、どんな生成の歴史を通して今の元素としてあらわれているかは問うことはないのである。
それと同じことが人間にあてはめられた教育が唯物論的民主主義教育である。水素の核融合によってできたヘリウムは、水素はヘリウムの親元素であっても、そこにはもう親子としての関係はない。ヘリウムはヘリウムであり、水素は水素であり、その歴史は相互に断絶するごとく、「子は親に対して孝養をつくす義務も責任もない」といって子供は教育せられるのである。学園で暴動して、その両親がどんなに悲しんでいても、親の嘆きなどは彼らにとって屍チヤラである。彼らは人間の形をしているけれども、その精神は一個の物質分子であり、いのちの歴史からも家系からも国家の歴史からも断絶したバラバラの物質的存在であるのである。
彼らは「日本の国民」という伝統も歴史をも精神の中にもっていないで、ただ日本の国土という地球の一部分にわいたところの寄生微生物みたいなものである。寄生微生物は、人間の肉体の中で発生し生存していても、「人体」の一部分であるという自覚をもっていないで、「自分に主権あり」とて、自分ばかり都合がよければよいとむやみに増殖して、「人体」ぜんたいの生存を危くしてしまうのである。
唯物論的民主主義は、人間を物質的単位において考察し、「個」が「全」の内包する歴史と伝統とからの断絶を目指すがゆえに、すべての存在をその「番号的空間位置」と「数量」とによって表示されるのである。たとえば地名または町名の如きも、歴史的雰囲気をもつ称呼は廃止せられて、"六―三三―二四号〃というように便利的に取扱われるだけであって、その地名または町名の、みやびな言語の雰囲気やその地または町においてかつて何が行われ、いかなる人が生れて来たかの歴史の連続や記憶や連想による複雑な厚みのある精神的内容は、ことごとく抹殺されるのである。
このような民主主義の下においては、そのうちに町名だけではなく、人間をも番号によって、「何番の何号」というふうに囚人式に取扱かれることになりかねないのである。すでにその一端が人間の命名において強制せられているのである。私は、先日ある人に女の子が生れたので、「美沙子」と命名してあげたら「沙」の字は当用漢字にないからとて、出生届が却下せられたということを聞いたのである。その文字のもつ歴史とか、風格とか、二ユアンスとか、味わいとか、美的感覚とかいうものを唯物論的民主主義は拒絶するのである。
そして人間はただの電算機となる。それは番号と符号とによって便利に動く機械となるのである。ただ私はこの唯物論的民主主義の憲法下で不思議に思うことは、ゲバ棒をもって数干人が集団して示威運動することは「表現の自由」でゆるされていながら、美的感覚や、歴史的伝統ある連想をもついろいろの美しい漢字や熟語の使用を禁じて、文字や言語のもつ歴史抹殺することによって、われわれ文学芸術家の「表現の自由」を制限していることである。
これは結局、現代日本の民主主義なるものが、日本人の心から歴史を抹殺して日本国を伝統と歴史とから断絶し、歴史なき浮浪の民族に過ぎないという潜在意識を養成して、日本民族の民族精神の根元を断ち、「伝統ある日本」への愛国心を根絶し、他国の侵略に唯々(いい)として盲従しやすい国民を養成する方向に、隠れたる侵略者の手が動いていることを示すものである。国を愛する人たちに注意していただきたい。
谷口雅春著「私の日本憲法論」
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