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民主主義という次期独裁者のカクレミノ
武藤貞一氏はその機関誌「動向」の四十三年五月号巻頭に"民主亡国"と題して次のようなことを書いている。
「民主主義とは、下剋上のことである。民主主義とは、個人主義、エゴイズム、反公共主義のことである。民主主義は、独裁、専制、権力主義を排するための言葉であることはもちろんである。しかしそれは一応のカクレミノに過ぎない…:」
"下剋上"とは"下が上を剋す"ということである。易経に出て来る語である。〃剋す"とは下位のものが上位に立って上位のものを害(そこな)うことである。たとえば脚は下にあるべきものであり、頭が上にあるべきものであるのに、脚が頭の上に位置して、脚が頭に命令を下して、頭を歩かせようとし、頭本来のハタラキを害うことである。学生が学長や教授をつるし上げ、机や椅子をバリケードにして、その上に立って大いに叫び、天地の秩序を逆転することである。この天地逆転・世界紛乱(ふんらん)の原因がアメリカから日本弱体化のために輸入された民主主義と、そのいわゆる〃民主主義憲法"である。公共の福祉などは考えず、市民に迷惑がかかっても、自己主張を貫徹するために全学連が暴力を揮い自分の給料さえ上ればよいというので、総評または国労の命令一下で交通機関のゼネストをやるがごとき、ことごとく、この民主主義憲法の許すところである。
武藤貞一氏は民主主義の隠れ簑(み)の仮面を剥いだのである。使嗾攪乱(しそうこうらん)の陰謀に巧みな労働貴族である策士が、"民主主義〃という、一応「独裁権カ」を大衆の力で打ち砕くような仮面をかぶりながら、大衆の叛乱で既成の権力の座を覆(くつが)して自分が権力の座につくのである。総評の議長や私鉄総連の委員長や、やや劣るが三派全学連の秋山委員長などもすでに独裁者的"権力の座"についているのであってその命令一下その部下が、かつて軍隊が軍部の命令によつて一斉に任務についたと同じように、日本全国の交通を止めたり、角材や石ころをもって警官隊に命知らずの突撃を開始するのである。すなわち、その実力行使には暴力行使によって既成の独裁、専制の権力者を威圧し抑制し、完全に打倒(即ち革命)できるかも知れぬが、いつの間にか、その悪がしこい大衆の味方として煽動し使嗾していた策士がまた別の独裁、専制の権力者の座についていて、その命令一下その部下は“血みどろの突撃を開始するのである。それは軍閥の独裁とどこに相違があるのか。民主主義とは悪賢い策士が独裁・専制の権力の座につくために既成権力打倒の策戦としてのカクレミ,なのである。
だから武藤貞一氏は言う。
「いわゆる民主主義をもって独裁、専制、権力主義の政治を打ち砕くことはできてもそれは一時的な潰滅を招くだけで、民主主義そのものが個人個人の勝手放題で無秩序な力の発動により、相争い、相せめ合い、果てしなき闘争を経て、結局は、力の強いものが力の弱いものを暴力で制圧して、名状すべからざる非情酷薄(こくはく)な独裁と専制へ持って行く…」
全学連の現状は実際その通りである。秋山委員長は傷つかないで彼は逮捕されても、かえつて名声はあがり、箔(はく)はついて名誉欲や権力欲を満足させているけれども、命令一下突撃や殴り込みを開始する部下のものは、委員長の名誉欲や権力欲の犠牲となって血を流しているのである。結局、秋山委員長は共産ファッショの頭目であるのだ。
谷口雅春著「私の日本憲法論」
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