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冷酷非情な唯物論の世界
唯物論と民主主義とが結びつくとき、個々の人間の基本人権を尊重するという高い理想の名目の下に、理想に反する極端な個人主義が生れるのだ。そこには、個人の権利のみ人権として主張せられて「全体」に対する義務や奉仕がわすれられる。「全体主義はいけない」と民主主義国家では考えられがちであるからである。しかし、全体が健康にならないで部分の臓器が健康になれるはずはないのである。
現在日本の民主主義は唯物論に立脚しているが故に、人間と人間との関係は「物質」と「物質」との関係同様に扱われるに至るのである。物質と物質とが結合したり分離したりするのは、物理化学的法則によって、何の愛情もなく機械的に行われる。それと同様に、唯物論的民主主義杜会または共産主義国家に於いては、人間相互の離合集散は、肉体的快楽の授受関係または物質的利益の授受関係によって機械的に行われる。だから、昨日まで同志であつた者も、ソ連共産主義の元勲カウツキーの如く、トロツキーの如く、マレンコフの如く、フルシチヨフの如く、また中共に於ける劉少奇(りゅうしょうき)のごとく、利害関係が対立するに至るとき、冷酷無惨に排斥したり貶黜(へんちゅつ)したり粛清したりせられるのである。そこにはただ非常な冷酷があるばかりであって温かい"愛〃はないのである。なぜなら唯物論的集団の世界に於いては、おのおのの人間は物質の一単位に過ぎないから、その離合集散は非情に行われるのが当然なのである。
人間を唯物論的に取扱うとき、「本当の人間」または「人間の魂」は疎外せられる。人間の魂と魂との対話がなくなるのである。人間の魂と魂との対話が"愛〃である。その対話のできる根本的基盤は、すべての人間の生命は“神の子“であり、互いに全体が一つの生命であり、自他一体であるという実相の自覚である。唯物論的人間にはそのような”生命の共通“の基盤がないのである。それゆえに愛によってつながる契機が失われる。祖先→父母→子孫というような生命のつながりも、霊魂のつながりもなくなる。子は父母に背き、祖先を無視し、祖先崇拝や父母に"孝養"などという考えは"古い"として棄て去られる。そして「個」のいのちは神から断絶し、祖先から断絶し、父母から断絶し、人間は独立独歩であると宣言する。独立独歩は壮大な宣言でよさそうであるけれども、それは神からも祖先からも父母からも断絶した独立独歩であるから、彼は"無限"につながることができない。したがって彼は唯物論的主義の生活に於いて避けられない孤独と寂寥(せきりょう)とに魂がさいなまれ、人生無意義の感ふかく、生き甲斐を失ってしまうのである。その結果、暴動学生になるか、フーテン族になるか、快楽主義者になるか、極端な利己主義者になるかが落ちである。
物質はただ非情な、電圧や水圧や、金力による圧カによって、機械的に物理的に動くのである。大学で争闘している学生の中には、一人日当千円で傭われて来ている者があり、警官の放水で濡れた者は、五百円の割増金がついているのだという噂をきいた時に、私は愕然(がくぜん)としたのである。かつて日教組の街頭行列による示威(じい)運動が和歌山に於いて行われたとき、やはり他県から日当で雇われて行列に来ているものがあるということをきいたことがあったが、それは汚れた大人のことであると思って気にもとめなかったが、純粋に「人類愛」という、幻想にせよ、錯覚にせよ、使嗾(しそう)によるにせよ、ともかく、高邁な理想を心に描いて、血を流すことをもいとわず、不惜身命(ふしゃくしんみょう)に邁進する学生たちだと思っていたのに、その中にそのような不純な者が混っていたときいては驚くほかはないのである。
その"金“はいったいどこから出ているのだろうか、第三国からだろうか。日本の革新団体からであろうか。金銭で身を売って、同胞相争うて血を流すような冷酷非情の世界、それが唯物論に結びついた民主主義世界なのである。噫(ああ)!!私は世界全体の健全なる繁栄と幸福のために個人主義的民主主義の迷妄を払拭して、新しき霊的全体主義に人類が目覚めることを待ち望むのである。
谷口雅春著「私の日本憲法論」
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