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暴力が暴力をよぶ占領憲法
昭和四十二年 しかしその憲法そのものが、占領軍の銃剣をもって威嚇する暴力、の下において、この「憲法を受け入れなかったら 天皇の身体はどうなるかわからない」と脅かされて制定されたものである場合に、暴力を否定する理想の上からいえば、そのような暴力の下に制定された憲法は、占領という暴力が終了するとともに効力を失うべきものなのである。すなわちサンフランシスコ平和条約が結ばれると同時に、占領という暴力によって制定された現行憲法は合理的に失効してしまうべきなのである。
ところが時の内閣がアメリカに遠慮したのか、アメリカ製のこの憲法をそのまま習慣的に有効のごとく温存しながらアメリカの示唆によって、だんだん防備軍をつくり上げ、第九条の軍備放棄の条項を、無理押し、をして拡大解釈して、ついに現在の、自衛隊、をつくり上げていったのである。無理押し、というものは、たといそれが国会での多数の議決の形をとろうとも一種の暴力であるから、その改廃をせまるには、「平穏に請願」しているようなことで、この、無理押し、の暴力を排除することはできないのである。
そこに、無理押し、の暴力に抵抗しそれを排除するためには、無理押し、の暴力のほか仕方がない、そういう考えが全学連 の潜在意識の中にある。全学連だけではなく、社会党などの潜在意識の中にあるにちがいないのである。社会党の代議士が、自党の反対の議案を阻止するためには、実力行使、をやるのは当然だとしているのがそれである。実力、とは内容をカムフラージュした、暴力、であって、結局、暴力なのである。 こうして暴力に対抗するに暴力をもってしなければならなくなっているのが、日本の政界の現状である。その淵源を探れば、占領という暴力で、現行の憲法が制定されたのだから、それは当然行き過ぎがあるから、政府ならびにその与党の詭弁や強弁によって多数議決の暴力で無理押しをして憲法の条文を曲解してもよいという、政府側の考えがある。これに対して革新派は、政府ならびにその与党が、多数決の暴力でやってくるなら、少数党や少人数の団体は、具体的暴力で戦うほかはない、「平穏に請願」などということは、ただの、作文、であって実効がないことであって、一種の空文にひとしい。 それよりも憲法第二十一条の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」という条項に基づいて、集会をし集団をつくり街頭行進をするという表現方法を用いて、日本がベトナム戦争に介入するというように印象を国際的にも国内的にも与えるような首相の行動を阻止したい、しかしその阻止行動を、警官隊がバリケードを築いて妨害する場合には、バリケードそのものが物質的暴力であるから、学生はその暴力を排除するために投石をし、バリケードに使っている自動車を焼いたり占領したりしなければならなくなる。学生がそのように暴力をふるうならば、警官隊はその暴力を排除するために、警棒をふるい、放水車で水圧をもって学生に対抗する。騒ぎはますます大きくなったのである。 谷口雅春著「私の日本憲法論」より |
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