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特集 なぜ憲法をかえなければならないか!
現行日本国憲法前文の非真理性
はたして"人類普遍の原理"がこの憲法にあるか
(過去記事1月18日掲載)
ところで、新憲法の前文には「人類普遍の原理」に基づいてこの憲法が制定されたものであると宣言されているのであるが、この憲法に盛られているいわゆる"民主主義の原理"がはたして「人類普遍の原理」であろうか、はなはだ疑わしいと言わなければならないのである。 この現行憲法に盛られてあるいわゆる"民主主義の原理"なるものは唯物論であり、素粒子がすべてに先行して、それが結合して分子となり、さらに分子が結合して有機体となるように、事物の組成分たる構成単位が主権をもつという考え方である。そのような唯物論を国家にあてはめて、国家の構成単位であるところの国民ひとりひとりに主権があると定めているのであるから、国家の部分としての国民が幸福(この憲法では唯物論的な肉体的快楽を国民の幸福という)であれば、国家はどうでもよいというように定めてある憲法なのである。そこで国家を衛(まも)る自衛隊の存在も憲法違反だとして法廷で抗争できるような憲法になっているのである。
『無門關』第八則の"奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)の"公案の如く、車をバラバラに部分品に分解して、"車"はどこにあるかと探しても、"車"は見つからないと同じように、国家を国家の形成部分要素たる国民にバラバラに分解して、国民に主権をもたしたら"国家"は見つからなくなる。"国家"が見つからなかったら"愛国心"はなくなる。現に日本国民の"愛国心"は非常に衰退しつつあって、テレビの街頭録音で、あらゆる階層の日本国民に「あなたは国家と家庭とどちらが大切に思いますか」という質問をしたのに対する回答を聴いていたら、回答者の八〇%は「国家よりも家庭を大切に思う」と答えたのに驚いたのであった。 ・・・・省略・・・
国家は生命である(過去記事1月19日掲載)
そのように考えてくるならば、国家という有機的生命体も、単位要素を結合して、国家をして「国家」という生命体とならしめるためには、単に"国民"ひとりひとりという単位要素が勝手気儘(きまま)に自主権をバラバラに主張して、寄合所帯(よりあいじょたい)を形成するだけでは不可能なのである。バラがバラの花を咲かせ、藤が藤の花を咲かせるためには、養分とか肥料とかいう単位要素が、ただ無定見にあつめられるだけではその個性ある花の形が成り立たないのであって、その養分とか肥料とかの単位分子を、バラの花の理念が優先してバラの花の形にそれを配列したとき、バラの花が咲くのであり、藤の花の理念が優先して、養分とか肥料とかの単位分子を藤の花の形に配列したとき、藤の花が咲くのである。生命体の形成には「理念」が単位分子に先行し、「理念」が単位要素を支配して、これを個性ある形に形成しなければならないのである。それゆえに「生命体である国家」も、国家形成の単位要素たる国民(民族個人)に先行して、その国それぞれの特徴ある国家理念が存在し、その国家理念によって国民が統合せられて、それぞれの特徴ある国家形態が成立するのである。 アメリカ合衆国にはその国旗(星条旗)によって象徴せられているような民主主義国家理念が、民衆合衆の姿に国民をあつめて、合衆国特有の国家形態を成しているのである。ソ連国家はその国旗(鎚(つち)と鎌(かま))が象徴するような労農階級が主導者となる国家理念によって、国民が統合せられているのである。日本はその国旗の"日の丸"が象徴するような、ただ日の大神を中心にして国旗の全領域が無色無心にその栄光を仰ぎ見るような国家理念によって国民が統合せられているのである。
ソ連の国家理念を合衆国に持ってくることが不穏当であるのと同じく、合衆国の国家理念をソ連にもってくることも妥当を欠くのであるが、(ここには人類普遍の原理などはない)現行の日本国憲法は、アメリカの民主主義国家理念にソ連の社会主義国家理念を少しばかり混入してソ連にも多少満足させて沈黙させておくための鵺(ぬえ)的理念で、"国民主権"という国家形成の単位要素に主権ありと定めた憲法を押しつけたのであるから、天皇が存在しながら、主権は天皇になく、国民にあり、天皇は基本人権すらないただの象徴(シルシ)という奇々怪々(ききかいかい)な文章をもって始まっているのである。おのおのの国家にはおのおの異なる個性ある国家理念があるべきなのに、アメリカ式民主主義に、チョッピリ、ソ連的社会主義的なものを加えた国家理念を押しつけて、これを「人類普遍の原理」であると誇称(こしょう)するのである。まことに驚き入った押しつけであるのである。 この憲法に基づいて、日本固有の"家"の美俗は廃止せられ、親孝行の必要はなく老人は社会保障制度で養い、教師は"言うまでもなく労働者"となり、生徒は教師を月謝で養っているのだと考え、大学生はストライキをする。これが人類普遍の原理であろうか。
国家形成に各国別々の理念がなく「人類普遍の原理」とやらいうもので共通されうるものならば、どうして自由主義国家アメリカと、共産主義国家"中共"とが、そのイデオロギーの相異によって争ったり闘ったりしなければならないのか。それは、国家形成の理念には「人類普遍の原理」などというものは存在しないからこそ、そして互いに自国の国家理念を他国に押しつけようとするからこそ、そこに戦争が起こるのである。 だから現行憲法の前文にあるところの「ここに主権が国民に存することを宣言し……これは人類普遍の原理であり」などということはアメリカが勝手に、自国の国家形成の理念に、ソ連の国家形成の階級闘争理念をチヨツピリ混じたものを、「人類普遍の原理」だなどともったいぶって押しつけたのであり、それが非真理性のものであることは明らかなことなのである。
日本国家形成の理念はいかなるものか
(過去記事1月20日掲載)
・・・・省略・・・・
「上は則ち天津神の国を授け給いし徳に答え」という建国の根元にわれらは注意しなければならないのである。日本国は「人間立国」の国ではなくて、「神より統治の大権を天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子々孫々たる天皇に下し給うた」という「理念」の具体化が現実の日本国としてあらわれているのである。
この理念が「大日本帝国憲法」(旧憲法)の第一条「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」として明確に表現せられているのである。
・・・・中略・・・・
ここに注意すべきは、「國家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗二承ケ」とあることおよび「子孫タル者ヲシテ永遠二循行スル所ヲ知ラシム」とあることであって、この憲法は永遠に子孫に循行せしめなければならないし、しかも、その根本精神たる国家統治の大権は皇祖天照大御神および皇宗すなわち祖先歴代の天皇を通してそれを継承したところのものであって、この憲法の大精神は天皇の後嗣者および臣民および臣民の子孫たる者をして永遠に循行せしむべきものであると定められているのである。
「循行」とは命(みことのり)のままに循(したが)い奉って実行することである。この憲法の根本精神は「永遠二循行スル所ヲ知ラシ」めるのであるから、憲法改正のことを定めた帝国憲法の第七十三条「將來此ノ憲法ノ條項ヲ改正スルノ必要アルトキハ」があるにしても、その条項改正には、おのずから制約があるべきであって日本の「国家理念」そのものや「建園の根本精神」たる「國家統治ノ大權ハ…之ヲ祖宗二承ケ」ということまで改定することを意味せずして、足りない条項を加えるとか、条項の文章が不適当であるのを改正するとかいうような或る限定範囲があるはずであるので、無制限の改正または、全然の書き改めを意味するのではないことは明らかであるのである。だから、帝国憲法のその第七十三条の改正条項に従って現行の憲法が合理的に制定せられたというのは一種の詭弁であり、偽装にすぎないのである。
・・・・中略・・・・
日本国民にとっては帝国憲法を「改正する必要」などはなかったのである。占領軍にとっては「日本弱体化のために」"改正の必要。があったかもしれないけれども、日本国の憲法を定める当事者たる日本国民には"改正の必要。などはなかったのであるから、この七十三条の「改正スルノ必要アルトキハ……」の改正条項にはあてはまらないのである。
・・・・中略・・・・・
だから日本民主化のために帝国憲法を改正するの必要はないのに、この改正条項に従って改正したと呼称するところに偽りがあり偽装があり、不合理があり、虚妄があるのであるから、この七十三条によつて改正したと称する現行の憲法は、法理論上から無効なのであり、それは帝国憲法に対しては違憲の大罪を強行したのであり、単にそれは占領軍の占領行政遂行の便宜上設けられた基本法であるから、占領終了と同時にそれは失効してしまっていて、すでに帝國憲法が事実上復元しているはずなのである。
ただこの大事実を認めて宣言し、天皇に助言して、それを公布せしめる勇敢にして真理に忠実なる総理大臣の出現を私は待ちのぞむばかりである。以上の理由によって私はどこまでも、現行の憲法は、帝国憲法に対する違憲によって生まれた奇型児であるから本来無効であると主張するのである。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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