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特集 なぜ憲法をかえなければならないか!
 
○“一生命体としての国家""組合国家"との相異
(過去記事12月6日掲載)
 
 自然の花の美しさは、その花弁が中心に於いてバランスを得ていところにあるのである。豆科の植物や、すみれ科の植物のように、全体の花弁の構成が円周的に輸状になっていない花にしても、必ず、左右シンメトリーになっているバランスの支点に中心があるのである人間の芸術になっている活け花の美は必ずしも円周的な輸状につくられないで、むしろ不等辺三角形をいろいろに組合わせた形になっているけれども、活け花を構成する花や葉や枝は、いろいろの方向に向いていながら"中心"にまとまる部分があってそこが重心となって倒れそうで倒れないところに生命的な美が表現されているのである。"中心"がなく、重心となるところを支点として各方向に射出した枝葉や花がバランスを得ていないならば、それは活け花としては拙劣で死んでいるのである。すべてのものは〃中心“を失ったとき、そこに死があり生命を失うのである。
・・・・中略・・・
さて、現行の日本国憲法に「主権は国民にありと宣言し」という宣言は、部分に主権があるという宣言であって、活け花の喩(たと)えをもっていえば、その活け花が美を構成するのに、その部分に過ぎないところの枝や葉や花にそれぞれ主権があって彼らがおのおの合議して“活け花"という芸術品ができたというような考え方が、いわゆる民主主義国家理論であるのであるそれはおよそ”生命あるもの””有機的存在者"の構成秩序に反するところの考え方であるのである。無論、外国の国家形成の順序には、人民の福祉と民族集団の防衛のため人民同士の協議により、集団組織を「組合」の如くつくりあげた種類のものがあるけれども、そのような国家に於いては統治権者が常に不安定であって、陰謀と軍事力によって王朝が常に代るか、国家主席が常に代るかして安定することはないのである。
そうなるのは、国家形成の秩序が、"生命体"の発生構成の順序に則(のっと)っていないので、"生命体"としての一貴性を欠いているので崩壊しやすいことになっているのである
 
○党派の利益のための民主政治(過去記事12月7日掲載)
 
民主主義は、特権階級の一般国民に対する強制を最少限にとどめ、国民の自発的協カを最大限に喚起する政治理念であるけれども、それが"自発的協力"を喚起するのであるから、利己的精神や党派根性の存在するところに於いては、自分自身または自分の属する党派の利益のために政治が行われる危険があるのである
・・・・中略・・・
民主主義政治は、一個人では力がないから徒党を組み、徒党(政党)の政治になっているから、その党の利害に従って政治の動向が歪められるのが常であるのである。これが民主主義政治の欠陥であるのである。この欠陥が埋められるためには、国民のひとりひとりの道徳的精神が向上し、利己心が最小限になる必要があるのである。
 
○大東亜戦争と天皇の御意志(過去記事12月8日掲載)
 
いままで天皇政治については、民主主義者や共産主義者側からいろいろ批判されて来たけれども、日本の天皇は、どんな徒党にも、どんな政党にも、どんな派閥にも、どんな階級にも属していられないで、国民ぜんたいの幸福を念願していろいろの政策に対して御裁可を与えられるのであるから、天皇政治ほど派閥に偏らず、公平無私な政治が行われる政治はないのである大東亜戦争の発端に於いても多数決で「アメリカを叩くほかに支那事変を早期解決にもって行くことができないので、アメリカに宣戦する」と議決せられたときにも、昭和天皇のみがその戦争に反対して、わざわざ明治天皇の御歌を筆写したものをポケットに携行しておられて、それをひらいて、
 
四方(よも)の海みな同胞(はらから)とおもふ世になど波風のたち騒ぐらん
 
と朗々と読み上げられて、戦争反対の意志を表明されたけれども、すでにその頃、民主主義の多数決制度が日本に行われていて、天皇政治ではなく、天皇機関説が実際に行われ、天皇は多数決せられた条件に、ただ御璽(ぎょじ)を押す一つの制度上の機関になつていたのである。
・・・・中略・・・・・
 
大東亜戦争開始の当時は天皇は機関であって自由意志がわれなかった。天皇は「四方の海同胞」の普遍愛の精神に立っていられて、明治天皇の御歌をお読みになつたが、天皇の平和意志は無視せられたのである天皇はどんな派閥にも、党派にも、階級にも属されない。だから昭和二十年八月九日、皇居の地下壕で「ポツダム宣言」受諾か否かの御前会議が行われた時にも、「無駄な戦争をつづけることは日本国民のためのみならず、世界人類にとつても不幸なことである。…自分の体はどうなってもよいから戦争をやめる」と仰せられるのは「無私」であり「無我」であり、どんな利己心をも超えていられるのであり、「国民のためのみならず世界入類の不幸である」と仰せられたのは、その御慈愛が単に日本国民のみならず普遍的に全人類に及んだ愛で、偏った執着の愛でないことを示しているのである。このように公平無私不偏不党、普遍的な精神で行われる政治が天皇政治であるのである民主主義の政党政治で、党利党略、自党の利益のためにはどんな権謀術数でも憚らずに用いる政治の如きは、天皇政治の足もとにも及ばないものであるのだ
 
 
○国が栄えるためには国民の努カを集中する目標が必要
(過去記事129日掲載)
 
.国が栄えるためには、その国の国民が、共通の目的のために、国民の努力を集中できるような国家理想をもたなければならないのである。昔の日本国は「天皇」が国家理想の表現体であつた天皇の大御心(おおみこころ)の中に「神意」を日本民族は見たのであつた。天皇は神聖で神聖であり、武家政治の時代に於いてすらも、その政権は天皇から授かる神聖なるものと感じとつていたので、征夷大将軍になるのも、関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん)になるのも天皇によって任ぜられたのである。その頃は、内部に政権争いや戦争があっても、究極のところでは国民が一つの国家理想によって統一せられていたのである
 
しかし現在の日本国民は、国民ぜんたいが心を一つにして努力を集中するよう国家理想を見失ったのである。占領軍の強圧によって書かしめられた天皇の“人間宣言の詔勅“と占領憲法とによって、天皇は”神“でなくなり、天皇を国家理想の表現体と見る人は暁天(ぎょうてん)の星のように少くなったのである。そして日本国の国家目的が民主主義杜会の建設であったり、共産主義杜会の建設であったりして、支離滅裂の各人てんでんバラバラな目的をもって国民の精神が分裂してしまっているのである。
国民全体共通の国家理想実現のために協同して努力できない日本国の現状ほど、われわれ愛国者にとって悲しむべきことはないのである。私は「目本国民よ、もう一度、神武天皇建国の日本精神に立ち帰れ」と叫びたいのである。
 
日本の天皇政治を民主政治と対立し互いに相反するものだと考えるのは間違いであるのである。天皇政治の中に於てのみ、本当の「派閥のない民主政治」が育ち得て、私利私欲の追求で互いに憎しみ合うような民主主義が姿を消す可能性があるのである。天皇のみが私利のない私欲のない、世界万民の幸福を希(こいねが)い給う偏りのない「神聖権威」であるからである。この偏りのない「神聖権威」を上に奉戴して民主主義の政治が行われるときに、私利私欲による派閥闘争の汚れたる精神が浄められることになり、本当にルール。を守った民主政治が行われることになるのである神聖権威を上に奉戴しないで、利己主義精神の顕現である個人が、利益追求の組合組織を国家と考えて、そこで、利益の相似た者同志が徒党を結んで政党を結成して、国会及び院外に於いて闘争するようなのは、「下の下」の民主主義政治なのである。現今の日本の民主政治は、この「下の下」の民主政治に過ぎないのである。
 
つづく
 
谷口雅春著 「私の日本憲法論」
 
 
特集なぜ憲法をかえなければならないか!
 
臓器移植について想う (過去記事12月1日掲載)
昭和44
 
札幌医大の和田教授によって心臓移檀手術を受けて、一時、小康を保っていた宮崎信夫君が死んだ。宮崎君は、その死の晩、テレビ放送を見て、愉快そうに笑っていたほど元気であったのに、その夜、疾(たん)が気管に引っかかって、普通人なら、咳によってその疾を排出することができるのに、信夫君は、その疾を排出するだけの咳を出すのには体カが足らぬので、ついに疾を排出することができないで、疾で気管がつまって窒息死してしまったというのである。
     ・・中略・・・
しかし、その生きている細胞や、臓器を部分品として繋ぎ合わし、縫い合わしさえしたら一個の人格ある個性を備えた「生命体」が成り立つかというと、そこには疑問があるのである。 
 
人間は部分品の寄せ集めではない(過去記事12月2日掲載)
 
1個の有機体が完全な「生命体」であるためには、その生きている細胞及びその細胞群によって形成されている系統や内臓等を「一つの命令系統の中枢」の支配カによって、統制し得る状態にあらしめねばならないのである。
     ・・中略・・・
 
だいたい生命体が健全であるためには「一つの命令系統の中枢」によつて全体の生理機構およびその生理作用および全系統、全細胞が秩序整然と支配されていなければならないのである。
 
・・・省略
 
人体は個性生命の創作(過去記事12月3日掲載)
 
さて、他の人の臓器等を移植した場合、拒絶反応をなぜ人体は起すのであろうか。それは人体というものは、単なる部分品の縫合ではなくて、その人の個性ある生命(「魂」といってもいい)の創作であるからである。それは唯物論者に理解できぬかも知れぬが、「生命」が他の体に宿るとき、その細胞にも、臓器の形成にも自分の個性ある「生命」の創作力が加わって、自分独特の個性ある烙印(らくいん)を細胞にも臓器にも押捺(おうなつ)するのである。それゆえに、血液型研究の世界的権威である古畑教授の説く如く、すべての人間の血液型は詳しく言えば、独得の個性ある血液型をもっているのである。
 
人体は決して“部分”の寄せ集めではなく、その人の「生命」が創作した個性的作品であり、芸術品である
・・・省略
 
国家も一個の生命体である(過去記事12月4日掲載)
 
以上、臓器移植についてやや詳しく述べて来たのは、実は、私は、国家を一個の生命体として観る場合に、日本国家の「生きたる命令系統の中枢」にあたられるところの、“統治の大権。を祖宗に継承せられて国家の元首にましますところの天皇は取りかえることができないということを言いたかったのである。
 
そして日本国家の「顔」に当たるところの国家の本来のあり方、すなわち「日本国独得の国体」はこれを取り換えたり、アメリカ国家の「顔」であるところの「民主主義」や、ソ連国家や中共国家の「顔」であるところの「共産主義」とは取り換えることができないのでありもしこれを取り換えたら、その人の脳髄や顔に、他の人の脳髄や顔をもって来て移植するようなものであって、本人がもう本人でなくなる如く、日本国が日本国でなくなるという否定し難き事実を皆さんに訴えたかったのである。
 
日本国の天皇主権のあり方と、その独得の個性ある国体とは、日本民族が三干年を通して創作した個性ある生命体であり、個性ある芸術品であり、マルクスやソ連や中共のつくった作品を継ぎ合わしたりして移植しても健全に生きていることができないものだということを宮崎信夫君の死を見て切に感ずるのである。
 
 
日本国家の基本構図(過去記事12月5日掲載)
 
日本の国は海外の諸国とは、国の成り立ちが異るのである。天照大御神(あまてらすおおみかみ)の大御心(おおみこころ)の中に「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国は世々(よよ)わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」という国家設計の基本構図を示し給うたその理念に従って顕現したところの理想的国家が日本国なのであるその理想は、人間が創作したところの理想ではなく、宇宙神なる天照大御神の創作せられた国家の基本構図に基づく理想であるのである
 
この理想は宇宙神の御発想にもとづくものであるから、単に日本国家形態の理想であるばかりでなく、あらゆる宇宙の存在の基本形態となっているところのものである。すなわちすべての宇宙に存する存在には、それが一定の個性をもって存在するかぎり、永久変らざる中心があるということである
 
・・・・中略・・・
植物が生きるためにも、必ず永遠変らざる中心がなければならないのである。
 
つづく
 
谷口雅春著「私の日本憲法論」
 
 
特集 憲法をなぜかえなければならないか
 
限りなく日本を愛する
 
男女の天分の相異と東西文化の使命(過去記事1126日掲載)
 
さて男性と女性とは、ともに「一」なる神から分化し、その生命を宿してゐるのですから、その基本的人権は平等でありますけれども、ひとたび男性となり女性となって出現した以上は、それは頭脳と心臓との働きが異なり、その措(お)かれてゐる位置が異なりますように、女性と男性とは異る役割を分担し、その措(お)かれてゐる位置も異なるのであります。
・・・中略・・・・・
男性原理は「陽足(ひだり)」であり、左は進むのであります。
女性原理は水極(みぎ)でありまして、右は退(ひ)くのであります。それによって一圓相(えんそう)となり、家庭が国家が完全に調和するのであります。

・・・・中略・・・・
「古事記」によりますと、イザナミは黄泉国(よもつくに)の神と云うことになってをります。ナミは水平運動でありますが、「一體の水」の波瀾(はらん)によって分裂した相(すがた)になります。この水平運動原理は、嘗(かつ)てロシアの労農運動となって現れたのであったし、ソ連の社会主義運動となって現れたり、また米国の民主主義運動ともなって現れてゐるのであります。それは個人主義であり、「分割して支配せよ」の文化であります。

黄泉国(夜見(よみ)の国)は日の落つるところ、即ち西欧にあたるのでありまして、西欧文化が「分割して支配せよ」の原理によって発達してゐるのはその分担せる使命の達成でありまして、これが霊的文化以上に発達してまゐりますと、それは凹の分化でありますから、中から割れてゐるのであります。

家族国家を分割して個人烏合の集合の国たらしめ、姦通を公許して夫婦の乖離することを容易ならしめ、独占禁止法によって大産業を分断して生産を減少せしめ、忠孝の思想を分断して人情の美を破壊し、物質を分割して分子とし、分子を分割して原子とし、原子を分割して原子崩壊を惹起(じゃっき)せしめ、広島を長崎を烏有(ういう)に帰せしめ、更に第三次世界戦を惹起きして世界全體を粉砕して「空無(くうむ)」に帰せしめようとしてゐるのであります。日本の失敗は本来の霊的文化の使命を忘れて西欧の物質文化に心酔し、物質の破壊的方面をもって世界を征服しようと點にあるのであります。

・・・・中略・・・・・
国家と云うものの本質も、「国」なる「理念」だとは理会出来ず、人民の「鳥合の集団」だと思えるのも無理はないのであります。「国家」が「理念」の顕現として理会出来るのはただ霊的な直観的把握によってのみであって、感覚による証拠はないのであります。その反駁論の一つとして、ある青年は
 
・・・・中略・・・・
「天皇に国民の運命を裁決させることには賛成できません」と云っているその青年自身が天皇の自己の生命を賭してのポツダム宣言受諾によって、現在安泰なる平和裡に生活し得ている事実を見なければならぬと思います。天皇がただの「看板」である時代に於いて、軍閥が、天皇の名に於いて、天皇を利用して、自己の権勢慾のために、そして群衆心理の盲動のために大東亜戦争を始めたのでありました。天皇に国民運命の裁決権を与えないで、多数決の一票の差の如きもので吾々の運命が左右されることの方が余程危険なのであります。
・・・・中略・・・・
尤も現在の日本の民主主義そのものが占領政策としてのアメリカのコンマーシャリズムから出発したものであるために、それに踊らされている人が利害打算の商売主義を以て民主主義だと誤解しているのでもありましょうが。


天皇から叡智を引き出すのは国民の天皇信仰による
(過去記事11月28日掲載)
 
私は仮りに反對論者の云ふやうに「一時的の叡智の晦ましから國民を不幸に陥れることがある」としても、天皇愛の感情から、それに従ふ純忠の精神が、損得によって離反迎合する商賣主義よりも一層美しく価値あると云ひましたが、これは反對論者の提出せる仮定の下に仮りに申上げたのでありまして、私は國民が 天皇の叡智を完全に信じ全托する心境になるとき、天皇は決してその叡智を晦まされるものでないことを信ずるのであります。
・・・・省略・・・・・・
 
過去世に十善の徳を積んだ者が王として生れる
(過去記事11月29日掲載)
・・・・中略・・・・
 
次に多くの青年の投書に現れたる意見には、「天皇制を存続するならば、天皇がファッシヨ勢力に利用される虞(おそ)れがある。天皇がたとい如何に立派であろうとも、その下につくものが天皇の名を利用して国民を苦しめる虞れがある」と云う意味の事が書かれています。そう云うことはあり得ると私も思います。それはどんな立派な会杜の杜長があっても、その部下が時にはその会杜の名を利用して詐欺を働いて私腹をこやす場合があるようなものであります。しかし杜長に部下を任免する権利があり、拒否権があり、部下の手腕や人格を大体見る目があれば、杜員の好策もあまり大事に至らずに、そう云う不都合な杜員は免職することが出来るでしょう。それは恰(あたか)も敗戦の結果遂に軍閥の威信が地に堕ちた時、本土決戦に到らずに、天皇が戦争の継続を抑止せられたようにであります。
 
 
天皇を単なる機関にせずにもっと天皇に強力な任免権があったらあの大東亜戦争も抑止し得た筈であります。だから天皇を何ら政治的実権なき「国民尊崇の理想目標」として、単に看板の如く置く場合には却(かえ)って奸侫(かんねい)なる政治家に利用される虞れがありますが、天皇が政治的実権と最後の任免の権をお有ちになった上で、閣僚に政治を委任されるならば、閣僚の行き過ぎは天皇に於いてこれを是正したまうから、理想政治を行うに近しと云うことになるのであります。だから天皇はただ「機関」や「看板」や「ロボット」であられてはならないのでありまして、政治の大綱は天皇より発しその大綱の実現の上に精紬な計画を行うブレン・トラスト( Brain Trust)を必要とするのであります。
 
 
 
 
 
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
 
 
特集 憲法をなぜかえなければならないか
 
 
○大極より両儀生ず(過去記事1123日掲載)

偖(さ)てこの不偏の「御中(みなか)」よりして、高御巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)が生まれられました。「高」は、高く、逞(たくま)しく、猛々しいしく聳(そび)え立つ原理即ち凸の原理、「陽」の原理であります。「神産巣日神」は幽身(かみ)ムスビの神であり、幽(かすみ)に、風の如く、霞の如く、香(か)の如く姿形がカクレてゐる「凹の原理」「陰の原理」でありますしかし陰と陽とを別々のものと観じないで、タカミムスビの神、カミムスビの神と、其の名の示すが如く互いにムスビ合うものとして相即相入の一体の神として陽神と陰神とを見てゐるのであります。

その陽神が、人格神とあらはれたのが、イザナギの命(みこと)であり、その陰神が人格的にあらはれたのがイザナミの神であります。「古事記」の原文は退屈になる人が多いので茲(ここ)では原文を省(はぶ)いて説明だけを申し上げます。イザのイは息(イキ)、又は命であります。サは「誘フ」「擦(さす)ル」「サラサラ」などの語にあらはれてゐるところの「相触れる」と云う意味であります。「陽」の息吹と「陰」の息吹とが互いに相触れる、その一方はナギ(男性)であり、もう一方はナミ(女性)であります。

「波」の文化を代表するものが「イザナミ」の神であり、「凪(なぎ)」の文化を代表するものが「イザナギ」であります。イザナミの文化は西欧文化であり、物質文化であります。ナミは水平でありますから「平等」を叫びます。人間の水平運動の要求であります。次に千々(ちぢ)に分裂いたします。西欧文化(物質文化)は分割文明であります物質を分子を原子に分割し、原子を分割して原子爆発を起こして、一切のものを破滅さしてしまいます労資を企業の一体として認めず、相闘う分割体として労組と経営者側とに分割し、ストを以て対抗せしめます。

一家族を一家族としてみとめず個人単位、夫婦単位に分割してバラ々にしてしています。それは朝(あした)に甲の男に靡(なび)き、夕べに乙の男に通ずる不貞の文化であり、姦通公認、堕胎公認の文化であります。イザナミは「波」即ち「水」の文化でありますから、水極(みぎ)即ち陰極の文化であります。水極はミギ(右)でありますから右側通行の文化であります。女尊男卑の文化であり、女人が左(まえ)の衣服をまとふ文化であり女性が帽子を着けて、男性が脱帽する文化であります

西欧軍が日本へ上陸して何をしたか上にのべたる原理に従って観察して頂けば西欧文化と云うものの特質がおのづから理解出来ると思います。それは結局、性の頽廃と、忠誠心の破壊と、広島と長崎とを原子力で灰儘に帰した如く全世界を灰儘に帰せんと破壊力を準備しつつある文化であります。「波」の文化はかくの如きものであります。それは漂うもの、無常なるもの、今一つの「波」があらはれてゐるかと思うと、その「波」は消えて次の別の「波」が現れると云う果敢(はか)なき文化であります。其処には萬世一系も久遠無(きゅう)もないのであります。選挙毎に交代する大統領の文化であります。
 
 
○イザナミ文化の無常性(過去記事1124日掲載)

以上がイザナミの文化の特質でありますが、私はそれを否定しようと云うのでも排斥しようと云うのでもありません。それは西欧文化が受け持つべき役割なのでありますから、西欧は西欧でよろしいけれども、東洋特に日本の文化が、この西欧の文化を模倣する必要はないのであります
・・・中略・・・・
 
イザナミの文化はイザナミの命は女性でありますから、女性文化であります。それはナミ(波)の文化、無常の文化、それが男性の天貫鉾によって貫かれなかったならば家(家庭・建設的なもの)を形成することが出来ない。どこへ流れて行くかもわからない。それはただの浮浪の文化であって、彼女を刺し貫いてくれる者が誰であるかによって、それは、原子爆弾のやうに破壊的にもつかはれるし、原子力利用の発動機のやうに建設的にも使はれるのでありますイザナミの文化はそれ自身では無常であり、無自性であります。まことにも東洋の文化は霊的文化であります。それは西欧の文化のやうに分割的ではありません。それは天貫鉾の文化であります。天啓として、天より天降って来るところの啓示の文化であります。それは霊の文化であります。分析にあらずして直観によって、全生命を一度に把握するところの直観の文化であります。だから名だたる宗教の教祖は釈尊は無論のこと、老子、孔子、孟子、達磨(だるま)、臨済、黄檗(おうばく)、弘法、傳教、法然、親鸞、日蓮等悉(ことごと)く東洋に生まれたのであります。西欧人が信じているキリスト教の教祖イエスも東洋の西端に生まれたのでありまして彼もまた東洋人であります。
・・・・中略・・・・
 
日本民族こそはこの西欧の水平分散浮浪の文化を、直観啓示の霊的文化によって刺し貫いて融合和解し、これを建設的に綜合(大和)すべきヤマトの使命を有するものだと云わなければならないのであります。
まことに「水火(みずほ)の国」とはこの水の文化を火(霊)の文化にて融合帰一すべき日本民族の先天的使命を直観的に表現した言葉なのであります。宣しく日本民族たるもの徒(いたず)らに西欧科学文明のみに陶酔することなく、この霊的大和の日本民族の使命を自覚せられたいのであり、特に、次代の日本を背負って立つ青年諸君に、私はこの自覚を促さんとするものであります。
 
 
○男性原理と女性原理の交合(過去記事1125日掲載)
 
さて、陰陽不二の天之御中主神より、イザナギとイザナミとが分化し人格化してあらはれて来ましたときに、それは既に陽性原理、陰性原理と云うやうな抽象的な原理でなくなったのであります。それはすでに男性原理、女性原理と一層具体化の相(すがた)に於いてあらはれたのであります。
・・・・中略・・・・
 
女性は陰極即ち「水極(ミギ)」であり、男性は陽極即ち「火足(ヒダリ)」であります。左が進み、右が退くのが霊性文化の特徴であり
・・・・中略・・・・
 
だけども誰でも左手と右手とにはその働きの分担(謂はば天分)が異なるのでありませう。その基本的権利は全く同一でありながら、その天分が異なるのであります。同一生命の顕現でありながら、眼には眼の役目があり、胃袋には胃袋の役目があり、心臓には心臓の役目があるのでありまして、平等にして差別あり、差別にして平等なのであります。その差別を忠実に履行するとき、その平等の生命が生きて来るのであります
 
平等のみを主張して悪平等に陥るとき、「天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらず」と云いながら、「天は心臓も肺臓もつくらず、ただ細胞のみ平等につくりたり」と云うことになり、人間はバラバラの細胞に分解分散してしまって全體としての身體の自由は覆されてしまうのであります。
・・・・中略・・・・
 
心臓も肺臓も平等の権利を主張しても可いけれども、各々その役目をつくすことを放棄してはならないのであります。
 
 
つづく
 
谷口雅春著「私の日本憲法論」
 
 
限りなく日本を愛する 
 
 
日本なるものの本質過去記事11月21日掲載)

前章はある青年会での講和で、時間が限られてゐましたので、充分盡すことが出来ませんでしたので、本章には幾分重複する處があるかも知れませんが或るところで発表した一文をもって追加することに致します。私は「日本」を限りなく愛します。日本の現実の状態ではありません。「日本」なるものの本質を愛するのです。

私は日本民族の本質又は特殊性と云うものをその「古事記」神話の中に見出だすことが出来ると思うものなのです。これは具體的歴史よりも尚一層真実なるものであります。具體的歴史と云うものは、神話の中に現れたる日本の理想が徐々に現実に展開して行く過程でありまして、時にはそれが退転した如く見え、不完全にあらはれたり、行き過ぎたり、行き足らなかったり、脱線したりするのでありますが、結局は大観して観る時、全體としてその民族理想が一層ハッキリと顕現し行きつつあるのであります。

さて日本民族神話の特徴は中心帰一理念であります。それは、「古事記」の冒頭の「天地(あめつち)の初發(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成(な)りませる神の名(みな)は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の最初の行にそれが既にハッキリあらはれてゐると云うことであります。
・・・・省略・・・・
 
高天原とは地上の一箇所の地名ではない
(過去記事1122日掲載)

ところで高天原と云うのは地球上の一地域の名称であるかのやうに思ってゐる人もありますけれども、これは決して、地球上の一地域ではありません。「高」は高く無限につづく縦の線「↑」をもって象徴する時間であります。「原」は横ひろがりに無限につづく空間をあらはす語であります。「天」は「天球」即ち球状宇宙を指してゐるのであります。「アマ」の語源は「顕(ア)れる円(マル)い」であります。時間と空間とが十字交叉して円(まる)くあらはれてゐる球状宇宙が「高天原」なのであります。即ち宇宙全體に鳴りひびいてゐる神(即ちコトバ)が天之御中主神なのであります
・・・・省略・・・・
 
中心帰一の日本民族精神過去記事1122日掲載)

諸物の根元に、「中(みなか)」をみとめ、それを「主」として仰ぎ(み)て、常にそれに還元するところの日本民族の特殊精神があらはれてゐるのであります無論、これは日本民族だけではなく、支那に於いても「大極より両儀(陰陽のこと)生ず」と云う風に、事物の根元に、「一」なる大極又は「中心位」をおいてゐる点は、日本も支那その他の諸民族も同じことではあります。併(しか)し、支那その他の諸民族に於いては、それを生活に実践しなかったのであります。
・・・中略・・・・
 
それが日本では国のありかたの上に、その真理が実現してゐたのでありまして、特に日本が真理国家であると云うことが出来るのでありまして、そこが他の国と異なるので、まことに尊いのであります。
 
 
中道実相の日本精神(過去記事1123日掲載)
 
日本人は天を仰ぎ見、地を附して見、そしてその根元に「中(みなか)」なる主をみたのであります。天に偏らず、地に偏らず。一方に篇して味方せず。中道なのであります。一方に偏るのは武人の専制になるか、プロレタリア専制なるか、どちらにせよ、その時の権力階級ファッショになります。中道はどちらにも篇しないのでどちらをも完全に生かすのであります。すべての人を神とみてどちらも完全に生かすとき、それが本当の民主主義になるのであります。しかし「中(みなか)」は決して悪平等ではありません

単なる悪平等は、すべてを生かすことが出来ない。「発して節にあたる」のでなければならない。発(あらわ)れては節度おのずから整い、緩急おのずから調和し、万物栄え万民鼓腹するのであります。平等のみを主張して、すべての細胞又は内臓を一平面上に置いたら有機體たる生物は存在し得ないのであります。国家も有機體であることを考えなければなりません。
 
つづく
 
谷口雅春著「私の日本憲法論」
 
 

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