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つづき 天保(てんぽう)の大(だい)ききん
ぶっぶっ言っていた村人たちも、金次郎の「先見の明」におどろきました。
更に三年後、天保七年はもっとひどい凶作になりました。長雨が降り続き、八月でも冬服を着なければならないほどの寒さでした。まことに江戸時代は飢饉の多い時代でした。約三百年のあいだに、三十五回以上の凶作がありました。高い年貢にあえいでいた農民たちは、その日その日の食料も満足に食べられないものも多くて、飢饉のための蓄えをする余裕はなかったのです。ですから、一度凶作になるとその被害は広がり、大飢饉となってしまうのでした。
しかし桜町は違いました。
この三年間稗を蒔き続け、陣屋にもそれぞれの農家にも、麦や稗をたくわえていました。
ゆとりのある農家は作物を貧しい農家にわけてやりました。陣屋一の米も足して、老いも若きも男も女も一人につき五俵の穀物をもつことができたのです。貧しい村人にとってはふだんの年より豊かなくらいでした。
金次郎は言いました。
「今回、飢饉のために飢えて死ぬもの幾万人ときく。まことに悲しいことだ。幸いにこの村の衆は一人の飢えるものもなく、平年と同じ食料をもつことができた。これで安心してのんきに食っているだけでは相すまないことだ」
「朝は早く起きて縄を綯(な)い、日中は田畑で励み、夜はまた縄を綯い、筵(むしろ)を織ろう。来年のためにたくわえ、凶作になっても大丈夫なように備えておこう。この天災を転じて福とするのだ」
「そして、よその土地の困っている人々にもできるだけの応援をしてあげよう。ゆとりのある者は協力してもらいたい」村人たちは金次郎のことばに大きくうなずきました。
桜町は近くの谷田部村(やたべむら)、茂木村(もてぎむら)などに穀物をおくりました。更に大久保忠真(おおくぼただざね)の親族、大久保忠成(おおくぼただなり)の領地烏山藩にも救援の穀物を送りました。
烏山藩(からすやまはん)もひどい冷害で米は一粒もとれず、食料は底をついて人々は飢えていたのです。救援の穀物を積んだ車は絶えまなく続き、人々はこれらの車をうれし涙を流しながら拝みました。
烏山藩の菩提寺天性寺(ぼだいじてんしょうじ)の境内(けいだい)に建てられたいくつもの小屋で、粥(かゆ)が炊(た)かれ、人々にあたえられました。飢えた人々はこの粥で生気をとりもどし、烏山藩でも一人も飢え死にする者はありませんでした。この時送られた穀物は千六百四十八俵あったと記されています
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2012年10月19日
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