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理念の人間
この心の中につくられた原型を哲学的に言いますと「理念」というのであります。即ち「理念の車」が先ず霊的世界に造られて、それが天降って来て現象世界に部分品が出来て、その部分品が「理念の車」の設計通りに集められて「現実の車」が造られると云うことになるのであります。
ところでこの「現実の車」(肉眼に見える車)は実際に肉眼に見え手で触れることが出来るから、非常に具体的であって確乎とした存在であるように見えているけれども、実は「理念の車」の模倣品に過ぎないのであります。「理念の車」のイミ・テーシヨンであります。ですからこれは「理念の車の影」と言ってもよいのであります。
吾々の感覚に触れて確乎として在るかの如く見えているところの現象的存在は、みなこれらは「理念」の投映せる影であって本当に在るのではないのです。「理念」のイミテーシヨンであると考えられるのであります。
本当の車は、心の世界に造られたところの霊的存在、或いは理念的存在でありまして、その理念と云うのは、真理と言っても宜しいが、永遠不減の存在であります。「現象の車」は、奚仲が車を発明して以来、何十億台の車が造られて壊されて又新たに造られたかも知れないけれども、「理念の車」は壊れることなく永遠不滅なのであります。
「理念の車」と云うのは、真中に心棒があって周囲が円くて回転するもの、即ち車の根本設計であり、ます。理念は永遠不滅でありますから、そのイミテーションであるところの「現象の車」は壊れても壊れても、不滅の「理念の車」の真似をして、或いは自動車となりトラックの車となり電車の車となり、汽車の車となり、或いは機械を運転する車となって無数に影を映して来るのであります。同様にして、人間についても、「理念の人間」なるものが永遠の存在であって、吾々が肉眼で見ている処のこの肉体的存在と云うものは、その影である。即ち理念のイミテーションなのです。影でありイミテーションであり模倣品でありますから、確乎とした存在ではないのであります。ですからこの肉体は、どんなに健康な人でも皆終いには老衰し病み且つ死ぬ。影であるから消えてしまうのであります。
しかし吾々人間の本体、これを我々は「實相(じっそう)」と言っておりますが、人間の「實相」と云うものは永遠不滅の存在であり、これのみが本当の実在であるのであります。
つづく
谷口雅春著 「私の日本憲法論」
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2012年10月30日
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