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真の日本国家なるもの
 
車の話や人間の話を致しましたが、これは実は「日本国家は何処に在るか」と云う問題の前提として、即ち「日本国家は何処に在るか」と云う問題を明かにする為の準備としてお話申し上げたのであります
 
 
車は、車を発明した人の心の中に在る。それが理念の車であって永遠の存在である。人間は、人間を発明して製造した不可思議なる存在ー言い換えると神様ーの心の世界に在る。これはキリスト教でも聖書の「創世記」に、「神その像(かたち)の如くに人を創造り」と書かれているのであります。
神の言葉によって造られたところの、姿なき神様の完全な姿を現実化したところの完全人間、神様の心の中に在るところの永遠存在の霊的人間、これが本当の人間であります。
 
 
ところで日本国家は何処から来たかと云う問題であります。現実的に言いますならば、神武天皇が大和に郡を造り給いて、そして六合兼都(りくごうけんと)・八紘為宇(はっこういう)の詔勅(しょうちょく)を降し給うたあの時に、日本は建国されたのであります。   
 
 
しかしながら、もっと遡(さかのぼ)りますと、日本の建国は古事記或いは日本書紀に書かれております如く、天照大神(あまてらすおおみかみ)が「豊葦原干五百秋之瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たる可(べ)き地(くに)なり。宜しく爾皇孫就(いましずめみまゆ)きて治(しら)せ、行矣(さきくませ)。宝柞(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮無(きわまりな)かるべし」と詔(みことのり)を以って仰せられたあの時に始まるのであります。天照大神の「天(あま)」と云うのは天球であります。地球に対する天球-即ち宇宙のことであります。そして「照」と云うのはその宇宙を照らし給うことであります。で天照大神とは宇宙を照らし給う大神であります。宇宙の大神の具体的顕現として現われられた天照大神様の心の中に、日本国なるものの根本的設計、即ち「理念の日本国」と云うものが造られまして、その理念が天降って来て現実化したのが神武天皇の建国であると云うことになっているのであります。天照大神様の天孫降臨(てんそんこうりん)の神勅(しんちょく)そのものこそ、日本国の根本的設計であり「理念の日本国」そのものである訳であります。
 
 
キリスト教の聖書では「ヨハネ伝」に「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき。万(よろず)の物これによりて成(な)り、成りたる物に一つとして之(これ)によらで成りたるはなし」と書かれているのでありまして、全てのものは言葉によって出来たと云うことが書かれているのであります。
天照大神の神勅即ち御言葉によって出来たところの日本国の根本的設計は、「理念日本国」の実相(じっそう)そのものであって、これは永遠不滅の存在であります。現象の日本国は途中で色々変化するにしても、この天照大神様の神勅にある処の「是(こ)れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たる可(べ)き地(くに)なり」と仰せられたその根本設計が壊れると云うことは有り得ないのであって、もしこの根本設計が壊れたものが出て来たら、それは日本国ではないと云うことになる訳なのであります。
 
 
それは丁度、車と云うものは、真中に心棒があって周囲が円くて回転するものであると云う車の根本設計たる理念が造られたら、現象の車はどんなに壊れても途中で損(いた)んでも、又新たにその根本設計に従って、真中に心棒があって、周囲が円くて回転するところの姿が出て来ることになるのであります。日本の国も神武天皇が具体的に建国なさいましてから後に幾(いく)変遷があったに致しましても天照大神様の御意の中に造られた日本国の根本的在り方―即ち根本的理念と云うものは永遠の存在として壊れないものなのであります。これが日本国の実相であります。
 
つづく
 
谷口雅春著 「私の日本憲法論」
 
 
 
 理念の人間
 
この心の中につくられた原型を哲学的に言いますと「理念」というのであります。即ち「理念の車」が先ず霊的世界に造られて、それが天降って来て現象世界に部分品が出来て、その部分品が「理念の車」の設計通りに集められて「現実の車」が造られると云うことになるのであります。
 
 
ところでこの「現実の車」(肉眼に見える車)は実際に肉眼に見え手で触れることが出来るから、非常に具体的であって確乎とした存在であるように見えているけれども、実は「理念の車」の模倣品に過ぎないのであります。「理念の車」のイミ・テーシヨンであります。ですからこれは「理念の車の影」と言ってもよいのであります。
 
 
吾々の感覚に触れて確乎として在るかの如く見えているところの現象的存在は、みなこれらは「理念」の投映せる影であって本当に在るのではないのです。「理念」のイミテーシヨンであると考えられるのであります。
本当の車は、心の世界に造られたところの霊的存在、或いは理念的存在でありまして、その理念と云うのは、真理と言っても宜しいが、永遠不減の存在であります。「現象の車」は、奚仲が車を発明して以来、何十億台の車が造られて壊されて又新たに造られたかも知れないけれども、「理念の車」は壊れることなく永遠不滅なのであります。
 
 
「理念の車」と云うのは、真中に心棒があって周囲が円くて回転するもの、即ち車の根本設計であり、ます。理念は永遠不滅でありますから、そのイミテーションであるところの「現象の車」は壊れても壊れても、不滅の「理念の車」の真似をして、或いは自動車となりトラックの車となり電車の車となり、汽車の車となり、或いは機械を運転する車となって無数に影を映して来るのであります。同様にして、人間についても、「理念の人間」なるものが永遠の存在であって、吾々が肉眼で見ている処のこの肉体的存在と云うものは、その影である。即ち理念のイミテーションなのです。影でありイミテーションであり模倣品でありますから、確乎とした存在ではないのであります。ですからこの肉体は、どんなに健康な人でも皆終いには老衰し病み且つ死ぬ。影であるから消えてしまうのであります。
 
 
しかし吾々人間の本体、これを我々は「實相(じっそう)」と言っておりますが、人間の「實相」と云うものは永遠不滅の存在であり、これのみが本当の実在であるのであります。
 
つづく
 
谷口雅春著 「私の日本憲法論」
 
人間は何処に在るか
 
 
 
皆さんのような政治問題、時事問題等について専門家でいらっしゃる方々の前で憲法の話などする柄ではないのでありますが、この間花見達二先生の時事間題の三部作が出来上がった祝賀の集りに是非とも話してくれと一言われまして、日本国の憲法の背景にある哲学はどういうものであるか、何処に誤りがあるか、と云うようなことを話しましたら大変喜ばれまして、今まで憲法の問題を取り上げて来た人と又別の立場から論じている点があるので是非とも日本国民会議で話してもらいたいと云う要請がありました。一応辞退したのでありますけれども、当番団体の誰かが話すことになっているので是非話してほしいと云うので、敢えてこの席を汚した次第であります。
 
 
禅宗の『無門関(むもんかん)』という本があります。これには四十八則の公案(こうあん)が載っているのであります。御存知の通り公案というのは悟りに導くところの問題の提起であります。この四十八則の公案の中で最も重大な公案が私は二つあると思うのであります。その一つは第六則の世尊拈華(せそんねんげ)という公案であります。それからもう一つは第八則の奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)という公案であります。この奚仲造車の公案には「奚仲造車を造ること一百輻(いつぴゃくふく)、両頭(りょうとう)を拈却(ねんきゃく)し、軸を去却(こきゃく)して、甚麼辺(なにへん)の事をか明む」と云うことが書かれているのであります。
 
 
奚仲というのは支那古代の人でありまして、初めて車を発明した人であると言われているのであります。その奚仲が初めて一百台の車を拵(あつら)えた。ところがどうしたのかその車の「両頭を拈却(ねんきゃく)し」即ち両方の頭を拈(ね)じりちぎり、「軸を去却して」即ち心棒を引き抜いて取り外して、部分品をバラバラに分解して、そして何か紛失したと見えて捜し廻っているのであります。それで或る人が「奚仲さん、あなたは何を捜しているのですか」と問うたら、奚仲が答えて言うのに、「今迄ここに車があったのに何処かへ行ってしまった。車は何処へ行ったのだろうと思って捜しているのです」と。これが公案であります。
 
 
果して車は何処に在るかと云う問題であります。皆さんはその「車」が何処に在るとお考えになるでしょうか。部分品を幾ら捜し廻っても「車」は無いのであります。これは公案でありますから単に車の問題ではないのであって、人間の悟りの問題であります。「車が何処にあるか」と云う問題は言い換えると「人間は何処にあるか」という問題にもなるのであります。
 
 
人間をバラバラにして部分となし、腕を此処へ放り出してその腕に対して「お前谷口か」と問うても、その腕は返事をしないのであります。腕という部分品には谷口はいないのであります。それでは両脚はどうであろうかと、又両脚を切って其処へ放り出してその両脚に対して「お前谷口か」と問うても返事はしないのであります。又胴体を切って其処へ放り出して尋ねて見ても同じ事であります。
「いや谷口は頭で考え目で見て口で喋る、だから谷口はあの首から上にいるんであろう」という訳で、この首を切って其処へ差し出して「お前谷口か」と問うても、もう其処には谷口はいないのであります。部分を幾ら捜し廻っても人間はいないと云うことなのであります。果して人間は何処にあるかと云う問題が奚仲造車の公案に含まれている問題であります。
 
 
禅宗の寺へ行って弟子にしてもらおうと思って、和尚に面会して「どうぞ弟子にして下さい」とお願い申したら、その寺の老和尚が「お前何処から来た」と言う。「はい、私は横浜の何処其処の者であります。其処から参りました」と云うような返事でもしたら、「もうお前帰れ!」と云う訳で弟子にしてもらえないと云うことであります。
 
 
禅宗で「お前何処から来たか」と言うのはそのような横浜とか東京とか云う所から来たか来ないかと云うことを問うているのではないのであります。「お前の生命と云うものは何処から来たか」と云う意味なのであります。それでこの“奚仲造車”の公案は、「車は何処から来たか、人間は何処から来たか」「車は何処に在るか、人間は何処に在るか」と云う問題の提起ですね。単刀直入に「車は何処に在るか」と云う問題に対する解答を致しますと、それは車を発明して製造した奚仲の心の中にあるのであります。その心の中にある車は部分ではないのでありまして、」車全体なのであります。心の世界に先ず全体が造られて、その心の世界に在る全体の設計又は構造と云うものが具体化して来るのであります。
 
 
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
 
 
 
つづき 大和理念としての日本国 
 
 
私の限りなく愛すると云った「日本的なもの」とは、日本の国号が過去に於いてありし如く「大和」であると云うことである。私の限りなく愛すると云った「日本的なもの」とは、日本の国旗の標識が○であるように、すべてのものと手をつないで真に丸く、円満完全に、○の中が空であるが如く、虚心無我にして、苟(いやしく)も私心を差し挿まない大調和な心と、それより発し育てられ来たった大調和の事々物々を指すのであつて、好戦的と云うこととは全く反対(うらはら)のことを指すのである。私の信念に於いては本当に「日本的なもの」即ち「大和の理念」があらわれたら、あの戦争は起らなかったに相違ないのである。今後日本が国連の一員として平和を護って行く上に最も大切なのは「大和」の理想の培養であらねばならぬ。形の世界は心の世界の反影(リフレクション)であるから、心の世界に「大和」の理念が、真に「日本的なもの」として、換言すれば、「日本本来の姿」として、確立せられなければ、形の上にも真の「平和日本」は確立せられないのである。
 
 
「日本的なるもの」とは、必ずしも単に過去の現象歴史の上に於いて、日本人が行為し来った行為の中に現れているものではない。またその総和でもない。「日本的なるもの」は、他の「ヨーロツパ的なるもの」と同じく、まず「理念」の世界に於いて生み出され、それが徐々に歴史的現実となって具現化し出づるものであるから、歴史的現実を跡辿(たど)って行くとき、その中にも発見されるが、発見されるすべてが「日本的なるもの」と云うことは出来ないのである。現象界は「理念」の現実化の世界であると同時に、それは「妄念」の具象化でもある。真象(理念の具象化)と、偽象(妄念の具象化)とが交々(こもごも)相錯綜しているのが歴史的現実である。日本の歴史全部を日本的理念の表現だと考えることは、真妄を甄別(けんべつ)しないことになる。何処の国に於ける現代の市井の出来事にも、殺人も強盗もあるが、それが「人間なるもの」の理念の表現ではなく、迷える一部人の妄念の表現であるのと同じように、歴史的現実にあらわれたる日本民族の諸相の中にも真に「日本的な理念」の表現であるものと、そうでない迷える人間の妄念の表現であるものとがある。それをハツキリ区別し、理念の表現であるものを発見し、妄念の表現であるものを非日本的なものとして排除し、正しく理念(又は理想)を生き切って行くべく努力するところに、人間生命の知性の純化と、意志の鍛錬と感情の陶冶(とうや)とがあるのである。それは可成り難かしい仕事であるけれども、その難かしい仕事を努力して成し就げて行くところに人間の魂の向上があるのである。
〈中賂〉
大和の心こそ真の日本の国であり、国とは形ではなく、「心」そのものが日本の国である。そして具体的「国」なるものは「心」の展開であるが故に、大和の「心」が真に深く行じられたとき、真の日本の国は生れるのである。まだ、謂わば真の日本の国は生れていなかったのである。真の大和日本(理念の日本)は理念の奥深く眠っていたと云うほかはない。戦争をした軍国日本の如きは真の日本を遠ざかること甚だしかったに拘らず、僭上にも日本国と号した。併(しか)しそれは大和国ではなかったのである。今や大和国は「理念」の底深きところからやっと生れ出でようとしているのである。軍国主義のニセ日本の敗北が、理念の底に眠っていた「真の大和の国」に対してその目覚めるべき契機を与えてくれたのである。軍国主義日本の敗退を嘆いてはならない。吾らの実相の「平和日本」は今理念の世界から顔を出しつつある。太陽は今昇り始めたばかりである。国民よ、この幼い日本愛し育てようではないか。  (昭和二十一年)
 
 
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
 
 
 
大和理念としての日本国 
 
 
私は日本を限りなく愛する。私は限りなく愛国者であることを欲する。こう云う言葉は真に日本を愛しない非愛国者から僧まれるかも知れない。僧まれても好い、私は限りなく日本を愛し、日本的なるものを愛するのである。兎も角も日本国が地上にいつの時代からか存在し、神が日本人なるものを此の地上に生んだことは、何か日本国なるものや、日本民族なるものに特殊の使命が与えられているのだと考えざるを得ない。特殊だと云っても必ずしも、日本民族が他民族に優れていると云うのではない。ささやかな梅の花にも梅の花としての特殊の美しさがある。それは豊艶な桜や牡丹の花には及ばないにしても、梅の花には梅の花に許された特殊の美がある。日本民族にも日本民族に許された小さいながらも梅の花のような美があるのではなかろうか。私は、それがあることを信ずる、信ぜざるを得ない。私は、桜の花や牡丹の花を愛しないのではないが、此の小さい梅の花の雪に蔽(おお)われ、寒気と戦いながら清楚に咲き出でた其の美を限りなく愛するように、何か日本民族に許されたる日本的な美しさがあることを信じ、これを愛せざるを得ないし、愛し育てたいことを念願とするのである。
 
 
日本的なものと云えば、直ぐ人々は軍国主義的なもの、好戦的なもの、侵略的なもの、掠奪的なもの、狡滑なもの……等々とすべて悪しきものの総称が日本的なものと誤解せられ、かかる「日本的なもの」を撥無(はつむ)し、除外し、消滅せしむることが、日本人にとって必要な緊急の課題だと考えている向もあるらしい。例えば、かつて「人間」と云う雑誌に出ていた「文学者の責務」と云う座談会に於いて、荒正人と云う人が、「その日本的自我を解放しなければならぬ。それはヨーロッパ的な個人主義であっていい」と平然として云い放っていた如きはそれである。
 
 
何が日本的であるか、若し「日本的」なるものが全面的に悪しきものであるならば、それらすべてを抹殺し除去しそれらから人間を解放しなければならぬのは当然のことである。ただ敗戦のためゆえに、全面的に日本的なものが悪いと考えるような考え方は、若し日本が日清日露の両戦のように勝っていたときには、「日本的なもの」は善きものだと考える考え方であり、かかる考え方は、善悪の真理についての一貫した考え方ではなく、その時その場の現象的勝敗と云う環境に迎合する時局便乗的な考え方であって、真に善悪を定めるところの考え方ではないのである。
 
 
吾々は「日本的なもの」を肯定し、又は否定するまでに、「目本的』とは如何なるものであるか、その前提をハッキリさせて置かなけれぱ、「日本的なもの」を排斥しても肯定しても、何を排斥するのか肯定するのか判らないことになると思う。
 
それでは「日本的」とは如何なることを指すのであろうか。日本人が行為したから、それは悉(ことごと)く日本的だと考えるのは愚かなことである。日本人は戦争をしたから、戦争をすることが果して「日本的」であろうか、私はこれに対して否と答える。そう云う好戦的なことを「日本的な」と云うのであるならば私は「日本的なものを限りなく愛する」とは云わぬ。私は却って、「日本的なものを限りなく排する」と云ったであろう。日本的なものを愛すると云い、排すると云い、どちらにしても、吾々は「日本的な」と云うものの中から、真に「日本的なもの」と、真個(ほんとう)は日本的ではないが誤って「日本人が犯したもの」との区別をハッキリさせて置かなければならないと思う。
 
日本は今開闢(かいびゃく)以来の危機に直面している。それは形骸の頽廃も重大な危機ではあるが、それは単なる肉体的危機である。それよりも一層重大なのは日本民族が、理想を失おうとしているζとであり、すべての理想を失って、ただ焼跡に蠢動(しゅんどう)する蛆虫や昆虫のように、亡国の民のみじめなる姿の中に闇から闇を追いつつ彷徨しつづけようとしているということである。形の国は崩壊しても、キリストも云ったように「我が国は此の世の国にあらず」であるから-それは重大なるものではない。最も重大なるものは、日本人であるところの、「日本に生れた人間」の内部にある理想(これこそ本当の日本の国であり、「日本的なもの」である)が崩壊すると云うことである。それが崩壊したとき、真に日本は、形の上でも魂の上でも滅びたと云うことになる。今やそれが滅びつつあるのではないか。長谷川如是閑氏がこれを評して「敗戦後も日本はまだ敗けつづけている」と云った如き状態がつづいていることである。形の上での日本の崩壊よりも尚恐ろしいのは日本の魂の崩壊であるのである。その日本の魂が、今もまだ崩壊しつづけていると云うことは何と云う悲惨なことであろうか。私は限りなき悲痛をもって慟哭せざるを得ないのである。
 
つづく
 
 
                                                          谷口雅春著 「私の日本憲法論」
 
 
 

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