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釈尊の教えも唯一の中心に帰一する国家を示された
(何故憲法を変えなければならないか)
仏教に於きましても、天皇中心国家なるものは釈尊の教え又は釈尊の宗教的悟りの理想であったのであります。「世尊拈花(せそんねんげ)と日本国の憲法」という題で私は話すことになっているのでありますが、「世尊拈花」というのは、あの禅宗の聖典である『無門関』という本の公案の第六則であります。
それには斯(こ)う書かれてあります。
「世尊(せそん)、昔、霊山会上(りょうぜんえじょう)に在つて、花を拈(ねん)じて衆(しゅ)に示す。是(こ)の時衆皆黙然(ときしゅみなもくねん)たり唯迦葉(かしょう)尊者のみ破顔微笑(はがんみしょう)す。世尊日く、吾れに正法眼蔵(しようぼうげんぞう)、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、実相無相じっそうむそう)、微妙(みみょう)の法門(ほうもん)あり不立文字(ふりゅもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)、摩詞(まか)迦葉に付嘱(ふぞく)す」
この公案の出典はどこにあるか。釈尊がこのようなことをせられたという事実物語のようなものは『大蔵経』の中には集録せられていないで、特殊な『大梵天王問仏決疑経(だいぼんてんのうもんぶつけつぎきょう)』という経に詳しくその事実が記載されているのであります。『大蔵経』にそれが集録せられていないのは伝えられている所によるとこの経は帝王経として、帝王の読むべき秘蔵の経であるから、一般の『大蔵経』には収められていないのだということであります。その『大梵天王問仏決疑経』にはこのように書かれているのである.
「爾(そ)の時、大梵天王、即ち若干の眷族(けんぞく)を引き来り、世尊に金波羅華(こんぱらげ)を献じ奉り、各々仏足(おのおのぶっそく)を頂礼(ちょうらい)し、一退いて一面に坐す。爾(そ)の時、世尊即ち献じ奉れる金色の波羅華を拈(ねん)じ、目を瞬(またた)き、眉を揚げて諸々(もろもろ)の大衆に示す……」
この波羅華というのが、“高天原”即ち実相世界の構図を象徴的に示すところの華(はな)なのであります。“波羅”というのは梵語(ぼんごで、“彼岸(ひがん)”という意味であります。現象世界のことを"此方(こちら)の岸。即ち"此岸(しがん)。と申しますが、実相世界のことを、現象の此方の世界から見て“彼岸“と申します。「彼岸に到る」即ち「実相の悟り」に到達することを”到彼岸(とうひがん)“即ち”波羅蜜(はらみつ)“と申します。実相の悟りに至る六つの道を”六波羅蜜“と申すことは皆さん既に御存知の通りであります。このように”波羅”という語は、“彼岸”即ち“実相世界“をあらわしているのであります。この実相世界のことを、キリスト教では、"天"とか”天国”とか申します。神道では高天原と言うのであります。その実相世界の構図の通りに、現象世界が成ることを、「みこころの天に成るが如く地にもなる」というのであります。
谷口雅春著 「私の日本国憲法論」より
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2012年11月12日
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