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世尊拈花(せそんねんげ)の意義について
こういう『華厳経』が釈迦成道の第一声であって、それを理解する者が普賢菩薩のほかに誰もなかったので、久しく竜宮の本源世界にそのままこの真理は沈められていたのでありますが。梵天王(ぼんてんのう)が偶々(たまたま)釈尊の説教会(せっきょうえ)にのぞんで、金波羅華を釈尊に献上して「これについて衆生のために説法して下さい」と言うものだから、金波羅華を大衆に示して「ここに宇宙の実相がある」と、その象徴を悟れと仰せられたのであります。
再説いたしますと、釈尊は、悟りをひらかれてから、宇宙の実相が蓮華荘厳の姿を内臓する。蓮華臓世界海であると説いてその第一声を挙げられたにも関らず、それ理会する者がないので、『阿含経』のような修養説教から説きすすんで、修養の根本となる“欲望の否定”の哲学を説くために、一切現象の空を説く「般若部(はんにゃぶ)のお経を説いて「五蘊皆空・無限耳鼻舌身意」と一切を否定し切られた。
ところが「般若部」のお経によって、釈尊は一切を否定し、否定し、否定し切られた末に、いくら否定しても否定し切れない“実相“があることを釈尊は「法華部」のお経に於てお説きになったのであります。先ず当時八十幾歳の老いぼれている現象の「肉体の自分」は「本来無い」のであって、五百塵点劫(じんてんこう)以前よりも尚更に百千万億阿僧祇劫(ひゃくせんまんのくあそうぎこう)以前から存在する久遠実成の如来である実相のみが独在するのであるとお説きになり、「衆生劫尽(しゅじょうこうつ)きて、大火に焼かるると見る時も、我が此土(このど)は安穏(あんのん)にして天人常(てんにんつね)に充満(じゅまん)せり」とお説きになって、焼け尽きる現象世界の奥に、永遠に焼けないくだけない実相世界がある。そして、その実相世界は、やがてくだける現象世界よりも、一層確実な具体的な世界であるとして、その光景を描写して、
園林諸々(おんりんもろもろ)の堂閣、種々の宝もて荘厳せり
宝樹華果(ほうじゅけか)多くして、衆生(しゅじょう)の遊楽(ゆらく)する所なり
諸天(しょてん)、天鼓(てんく)を撃(う)ちて、常に衆(もろもろ)の伎楽(ぎがく)を作(なし)し
曼陀羅華(まんだらげ)を雨(あめふら)して、仏及び大衆(だいしゆ)に散(さん)ず
我が浄土は毀(やぶ)れざるに、而も衆(しゆ)は焼(や)け尽(つ)きて
憂怖(うふ)諸々の苦悩、是(かく)の如き悉(ことごと)く充満せりと貝る
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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2012年11月18日
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