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つづき 男女の天分の相異と東西文化の使命
私が追放解除以来、現在の日本に於けるイザナミ化運動、水平運動、バラバラに分割する運動、労資を両陣営に対立せしめた運動等、凡そ、人間を水平単位に置くことによって、互いの愛情的関係をバラバラに分割する運動を歎いて、「日本再建の道を拓くもの」の一文を草して、日本天皇の戦争無責任論を詳(つまびら)かにして天皇制を護持しようとするや、喧々囂々(けんゝがうゝ)として、その反対論を投書して来るのでありますが、その反対論のすべては、すべて物的証拠を求めるイザナミ的思考の範疇(はんちう)から出たところの駁論のみであるのであります。感覚に証拠を求める限りに於いては、「人間は物質に非ず、肉体に非ず、脳髄細胞に非ず、血球にあらず、血清にあらず、……それらすべてを組み合わせたるものにもあらず、人間は霊なり……」と云う実相哲学の「人間・神の子」の宣言も結局容易に頷くことが出来ないのは当然のことであります。国家と云うものの本質も、「国」なる「理念」だとは理会出来ず、人民の「鳥合の集団」だと思えるのも無理はないのであります。「国家」が「理念」の顕現として理会出来るのはただ霊的な直観的把握によってのみであって、感覚による証拠はないのであります。その反駁論の一つとして、ある青年は、
「私は英国に於ける王のような、国民尊崇の理想目標として、ひいては愛国心の集まる中心としての天皇には賛成いたしますが、天皇に国民の運命を裁決させることには賛成できません。成程先生の言われるように一人の天才の叡智は衆禺の多数決にまさってゐるかも知れません。しかし天皇が国民の中での最高の叡智者であるという証拠(しょうこ)はありません。またその一時的の叡智の晦(くら)ましから間違いを演じて国民を不幸に陥れるかも知れません。」と云い
また或る青年は、「実相論を推進すれば天皇も国民も一列だ。嘗(かつ)て谷口師は斯(か)かる推論は悪平等として批判されたが、、どの一点に中心を置いても、すべて無窮世界では中心たり得るものであるから、現象界に於いて蜘蛛の巣の如ざただ一つの中心を以て律することはどうかと思う」と云っているのであります。
「天皇に国民の運命を裁決させることには賛成できません」と云っているその青年自身が天皇の自己の生命を賭してのポツダム宣言受諾によって、現在安泰なる平和裡に生活し得ている事実を見なければならぬと思います。天皇がただの「看板」である時代に於いて、軍閥が、夫皇の名に於いて、天皇を利用して、自己の権勢慾のために、そして群衆心理の盲動のために大東亜戦争を始めたのでありました。天皇に国民運命の裁決権を与えないで、多数決の一票の差の如きもので吾々の運命が左右されることの方が余程危険なのであります。
再軍備の問題にしても、与党と野覚の投票数が数票の差で、国民の運命が或る方向へと強制せられる如き民主主義なるものに於いては、ただ一票の差によって、自已の愛せざる反対党の意見のままに国民の半数が、自己の好まざる運命に専制せられざるを得ないような結果に到るのであります。それよりも、一人の吾ら自身の愛する叡智者を信じ敬し愛し、.その人のみこころに自己の運命をまかせる方が、たとい、反対論者の云うように一時の叡智の晦ましから、不幸の運命に陥ることがあっても以て喜んで死に得るのではありませんか。本当に吾らが何者かを愛するとき、そのもののために死ぬのは純潔の極みであり、それこそが至上価値ある死に方ではありませんか。こちらを愛したら得になるから従うとか、損になるから背くとか云うのでは、何処にも純潔な至粋な愛は見られない。それはただ商売主義ではありませんか。本当の民主主義とは単なる利害によって動くようなコンマーシャリズムであって好いものでしょうか。尤も現在の日本の民主主義そのものが占領政策としてのアメリカのコンマーシャリズムから出発したものであるために、それに踊らされている人が利害打算の商売主義を以て民主主義だと誤解しているのでもありましょうが。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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2012年11月27日
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