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過去世に十善の徳を積んだ者が王として生れる
次に第二問をもっと敷衍(ふえん)すれば、「實相論から推進すれば……無窮世界に於ては誰でも中心たり得るので、若し、天皇を本来円相であるとして拝んで、その完全性があらはれるのならば、どの人間を元首又は大統領として立てても、その本來円相である實相を拝んだならば、その完全性があらはれるのであらうから、別に現在の皇統を立てる必要はないではないか」と云ふ駁論の意味だと思ひます。 かう云ふ考へ方には、天皇に対する國民感情としての「愛」が少しもあらはれてゐないのを遺憾に思ふのであります。若しかう云ふ考へ方が民主主義であるとしますならば、それは全く悪平等の自由主義で「王候將相豈(わうこうしやうさうあ)に種(しゅ)あらんや」と云ふ支那の易姓革命(えきせいかくめい)の思想そのまゝでありまして、誰でも野心を起こせば、 天皇になれると云ふので、無数の天一坊や蘇我(そが)の入鹿(いるか)があらはれて来る契機を孕んでをり、永遠に日本は革命の闘爭の中に巻き込まれてゐなければならなくなるのであります。 即ち、それは「強いもの勝」の世界の現出であります。みんな平等であるから「どの一点に中心を置いても中心たり得る」と云ふので、常に中心たることを望むものが叛乱や、革命を起して國民はその爭乱に巻き込まれて悲惨なる生活の中を常に右往左往しなければならなくなるのであります。「天は人の上に人を作らず」さればすべての人は平等であるから誰でもが中心になれると云ふ思想をたとひそのまゝ承認しましても、國家の混乱を防ぎ國民を混乱に巻き込まれないで平和な生活を送り得るやうにするためにも、やはり歴史的傳統的に、他にすぐれて崇拝の的となり得る 天皇をその「中心」に定置して是を護持することが必要なのであります。 これは内乱を防ぐための單に方便としても必要でありますが、 天皇の霊魂の問題になりますと、「天は人の上に人をつくらず」と千遍一律に申す譯には行かないのであります。釈尊の教説によりましても、生命の実相の「原因結果の法則」によりましても、「今生」に帝王の位置に生れる者は「過去世」に於いて十善の徳を積んだものだと云ふことになってをります。從って帝王に生れたものを、その位置に据ゑ、その働きを発揮せしめ得るやうにするならば、他の者よりも過去世の行が積まれてをりますから、その叡智を発揮し得るやうになるのであります。その位置におかないで、ただ生物学者にしておけばそれだけの力しか発揮されないでしょう。どんな立派なエンジンでも据付ける場所で出力が異ります。 次に多くの青年の投書に現れたる意見には、「天皇制を存続するならば、天皇がファッシヨ勢力に利用される虞(おそ)れがある。天皇がたとい如何に立派であろうとも、その下につくものが天皇の名を利用して国民を苦しめる虞れがある」と云う意味の事が書かれています。そう云うことはあり得ると私も思います。それはどんな立派な会杜の杜長があっても、その部下が時にはその会杜の名を利用して詐欺を働いて私腹をこやす場合があるようなものであります。しかし杜長に部下を任免する権利があり、拒否権があり、部下の手腕や人格を大体見る目があれば、杜員の好策もあまり大事に至らずに、そう云う不都合な杜員は免職することが出来るでしょう。それは恰(あたか)も敗戦の結果遂に軍閥の威信が地に堕ちた時、本土決戦に到らずに、天皇が戦争の継続を抑止せられたようにであります。
天皇を単なる機関にせずにもっと天皇に強力な任免権があったらあの大東亜戦争も抑止し得た筈であります。だから天皇を何ら政治的実権なき「国民尊崇の理想目標」として、単に看板の如く置く場合には却(かえ)って奸侫(かんねい)なる政治家に利用される虞れがありますが、天皇が政治的実権と最後の任免の権をお有ちになった上で、閣僚に政治を委任されるならば、閣僚の行き過ぎは天皇に於いてこれを是正したまうから、理想政治を行うに近しと云うことになるのであります。だから天皇はただ「機関」や「看板」や「ロボット」であられてはならないのでありまして、政治の大綱は天皇より発しその大綱の実現の上に精紬な計画を行うブレン・トラスト( Brain Trust)を必要とするのであります。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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2012年11月29日
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