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真の平和運動は全人類を「神の子」として礼拝する思想普及である
 昭和56
 
 
 
また、現在の日本の民主政治が混乱に混乱を重ねているのを弁護する言葉として、「制度上の民主主義は終戦後に始ったばかりで、今は過渡期でありますから、いろんな混乱が起るのはむしろ当然であります。これは今まで国民が政治的に盲目にされていたことを物語る以外の何物でもないのであります。ですから我々は国民の教養を高め、青少年に対する充分なる民主教育の成果によって次第に民主主義のよい面を出してくれば、英国のようにフランスのように立派な民主主義国家になれると思うのです。英国でもフランスでも、何百年も努力して兎に角今日までに築いて来たのですから」と云う投書もありました。
 
 
私は現在の英国やフランスが理想国家だとは思っていません。かくて段々人口が滅少して国力が低下し行きつつある英仏の状態の如き状態にまで、日本が今後数百年もかかって辛うじて進歩出来るのだと云うような野呂間なことを考えると、民主主義と云うものが如何に国カを低下せしめるものであるかの実証のような気がするのであります。西欧の水平運動はイザナミの文化的発展に過ぎないのでありますから、波欄万丈の経過をたどりつつ結局は衰退の一路をたどるより仕方がないのであります。それは肉体(物質)は霊が脱けてしまったら、腐敗分解の一途をたどるより仕方がないようなものであります。どんな民主国でもその総カを発揮するには、横に平等な水平文化だけでは不可能でありまして、それを縦につらぬく、啓示的な叡智によって統帥する力を必要とするのであります。戦争中にも米国大統領が、非常事態宣言を出して独裁的になったのも、国民の総力を発揮するために必要だったからであります。
 
 
日本には日本の国のあり方、政治のあり方があるのでありまして、民主主義のレッテルが必ずしも凡ゆる国にとって又は、凡ゆる民族にとってよいのではないそれを数百年の訓練を経てさえも英仏の如き現状であり、明治日本に始った立憲君主政治は百年を満たずして、日本国力の進展かくの如きものを得たのであり、最近に到ってその弊害が出て戦敗の結果を来したのでありますが、「民主主義も数百年の訓練期間を必要とする」と云う反駁者は何故「立憲君主政治も数百年の訓練期間を必要とする」と云うように考えてやらないのでしょうか。百年に足らぬうちにたった一回失敗したからと云って、その弊害を除去してそれを温存しようとすることは考えずに、ただちに君主政治は駄目だと云って、他国の西欧精神に立脚した制度模傲に全面的に取換えようとするのは何故でしょうか。あまりにも天皇を戦争責任者として論ずるラジオに新聞によるアメリカさんの宣伝にのせられ踊らされているからではありませんか。民主主義が数百年も訓練を経た英仏も依然として戦争に巻き込まれねばならなかった事実は、民主主義必ずしも戦争の防壁にならないことを暴露しています。
 
 
本当は「人間の実相」を互いに神の子として礼拝し合う教育を全人類に施さなければ、百年河清(かせい)を俟(ま)つとも何の甲斐もないのであります。制度上に天皇制を廃止しても戦争を防止出来るものではありません。寧ろ夫(それは)は伝統的な尊崇の中心部を破壊することになりますから、国内争闘が激化して、常に内外ともに擾乱(じょうらん)の契機を孕んで、常に非常事態のうちに苦しまねばならぬことになります。天皇とそして人類との円満完全なる実相の一日も早く顕現することを私は祈るものであります。
 
 
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
 
 
過去世に十善の徳を積んだ者が王として生れる

次に第二問をもっと敷衍(ふえん)すれば、「實相論から推進すれば……無窮世界に於ては誰でも中心たり得るので、若し、天皇を本来円相であるとして拝んで、その完全性があらはれるのならば、どの人間を元首又は大統領として立てても、その本來円相である實相を拝んだならば、その完全性があらはれるのであらうから、別に現在の皇統を立てる必要はないではないか」と云ふ駁論の意味だと思ひます。

かう云ふ考へ方には、天皇に対する國民感情としての「愛」が少しもあらはれてゐないのを遺憾に思ふのであります。若しかう云ふ考へ方が民主主義であるとしますならば、それは全く悪平等の自由主義で「王候將相豈(わうこうしやうさうあ)に種(しゅ)あらんや」と云ふ支那の易姓革命(えきせいかくめい)の思想そのまゝでありまして、誰でも野心を起こせば、 天皇になれると云ふので、無数の天一坊や蘇我(そが)の入鹿(いるか)があらはれて来る契機を孕んでをり、永遠に日本は革命の闘爭の中に巻き込まれてゐなければならなくなるのであります。
 
即ち、それは「強いもの勝」の世界の現出であります。みんな平等であるから「どの一点に中心を置いても中心たり得る」と云ふので、常に中心たることを望むものが叛乱や、革命を起して國民はその爭乱に巻き込まれて悲惨なる生活の中を常に右往左往しなければならなくなるのであります。「天は人の上に人を作らず」さればすべての人は平等であるから誰でもが中心になれると云ふ思想をたとひそのまゝ承認しましても、國家の混乱を防ぎ國民を混乱に巻き込まれないで平和な生活を送り得るやうにするためにも、やはり歴史的傳統的に、他にすぐれて崇拝の的となり得る 天皇をその「中心」に定置して是を護持することが必要なのであります。

これは内乱を防ぐための單に方便としても必要でありますが、 天皇の霊魂の問題になりますと、「天は人の上に人をつくらず」と千遍一律に申す譯には行かないのであります。釈尊の教説によりましても、生命の実相の「原因結果の法則」によりましても、「今生」に帝王の位置に生れる者は「過去世」に於いて十善の徳を積んだものだと云ふことになってをります。從って帝王に生れたものを、その位置に据ゑ、その働きを発揮せしめ得るやうにするならば、他の者よりも過去世の行が積まれてをりますから、その叡智を発揮し得るやうになるのであります。その位置におかないで、ただ生物学者にしておけばそれだけの力しか発揮されないでしょう。どんな立派なエンジンでも据付ける場所で出力が異ります。
 
 
次に多くの青年の投書に現れたる意見には、「天皇制を存続するならば、天皇がファッシヨ勢力に利用される虞(おそ)れがある。天皇がたとい如何に立派であろうとも、その下につくものが天皇の名を利用して国民を苦しめる虞れがある」と云う意味の事が書かれています。そう云うことはあり得ると私も思います。それはどんな立派な会杜の杜長があっても、その部下が時にはその会杜の名を利用して詐欺を働いて私腹をこやす場合があるようなものであります。しかし杜長に部下を任免する権利があり、拒否権があり、部下の手腕や人格を大体見る目があれば、杜員の好策もあまり大事に至らずに、そう云う不都合な杜員は免職することが出来るでしょう。それは恰(あたか)も敗戦の結果遂に軍閥の威信が地に堕ちた時、本土決戦に到らずに、天皇が戦争の継続を抑止せられたようにであります。
 
 
天皇を単なる機関にせずにもっと天皇に強力な任免権があったらあの大東亜戦争も抑止し得た筈であります。だから天皇を何ら政治的実権なき「国民尊崇の理想目標」として、単に看板の如く置く場合には却(かえ)って奸侫(かんねい)なる政治家に利用される虞れがありますが、天皇が政治的実権と最後の任免の権をお有ちになった上で、閣僚に政治を委任されるならば、閣僚の行き過ぎは天皇に於いてこれを是正したまうから、理想政治を行うに近しと云うことになるのであります。だから天皇はただ「機関」や「看板」や「ロボット」であられてはならないのでありまして、政治の大綱は天皇より発しその大綱の実現の上に精紬な計画を行うブレン・トラスト( Brain Trust)を必要とするのであります。
 
 
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
 
 
天皇から叡智を引き出すのは国民の天皇信仰による
 
私は仮りに反對論者の云ふやうに「一時的の叡智の晦ましから國民を不幸に陥れることがある」としても、天皇愛の感情から、それに従ふ純忠の精神が、損得によって離反迎合する商賣主義よりも一層美しく価値あると云ひましたが、これは反對論者の提出せる仮定の下に仮りに申上げたのでありまして、私は國民が 天皇の叡智を完全に信じ全托する心境になるとき、天皇は決してその叡智を晦まされるものでないことを信ずるのであります。

眞に暴虐暗愚の家長(父又は良人)を完全圓満なる神の子として拜むとき、その暴虐暗愚の
家長が至慈至愛の家長と変貌する實例によって、天皇に於いても國民全對が、天皇を本当に愛し敬し、その圓満なる叡智と至仁(しじん)なる政治を信ずるとき、天皇には必ず、國民全対の幸福を實現する神ながらの叡智が發揮されるものであることを信ずるのであります。

「天皇が國民の中で最高の叡智者であると云ふ証拠はない」
「父が常に正しいと云ふ証拠はない」と云ふ常識的見解から(これは常識的や、現象を見る見地からすれば正しいのであるが)良人を批判し、父に反抗し、そのために如何に多くの家庭が不幸に陥ったか。又其の不幸に陥ってゐた家庭が、実相を拝む方法により、愛し敬し、その圓相を信じて委せる方法によって、その良人又は父が如何によくなり、家族自身の自由も却ってそれによって完全に確保せられるに到ったかは事實の証明する處であります。

天皇に於ても此の事あるは当然でありまして、「天皇がその最高の叡智者であるといふ
証拠はない」と云ってゐる限りは証拠はあらはれないのであってその實相の圓満を観ずるとき、その叡智があらはれるのであります。家庭に於いてはこの種の實例を無数にあげることが出來ます。國家も一つの「家庭」であります。

              谷口雅春著  「私の日本憲法論」より
つづき 男女の天分の相異と東西文化の使命
 
 
私が追放解除以来、現在の日本に於けるイザナミ化運動、水平運動、バラバラに分割する運動、労資を両陣営に対立せしめた運動等、凡そ、人間を水平単位に置くことによって、互いの愛情的関係をバラバラに分割する運動を歎いて、「日本再建の道を拓くもの」の一文を草して、日本天皇の戦争無責任論を詳(つまびら)かにして天皇制を護持しようとするや、喧々囂々(けんゝがうゝ)として、その反対論を投書して来るのでありますが、その反対論のすべては、すべて物的証拠を求めるイザナミ的思考の範疇(はんちう)から出たところの駁論のみであるのであります。感覚に証拠を求める限りに於いては、「人間は物質に非ず、肉体に非ず、脳髄細胞に非ず、血球にあらず、血清にあらず、……それらすべてを組み合わせたるものにもあらず、人間は霊なり……」と云う実相哲学の「人間・神の子」の宣言も結局容易に頷くことが出来ないのは当然のことであります。国家と云うものの本質も、「国」なる「理念」だとは理会出来ず、人民の「鳥合の集団」だと思えるのも無理はないのであります。「国家」が「理念」の顕現として理会出来るのはただ霊的な直観的把握によってのみであって、感覚による証拠はないのであります。その反駁論の一つとして、ある青年は、
 
 
「私は英国に於ける王のような、国民尊崇の理想目標として、ひいては愛国心の集まる中心としての天皇には賛成いたしますが、天皇に国民の運命を裁決させることには賛成できません。成程先生の言われるように一人の天才の叡智は衆禺の多数決にまさってゐるかも知れません。しかし天皇が国民の中での最高の叡智者であるという証拠(しょうこ)はありません。またその一時的の叡智の晦(くら)ましから間違いを演じて国民を不幸に陥れるかも知れません。」と云い
 
 
また或る青年は、「実相論を推進すれば天皇も国民も一列だ。嘗(かつ)て谷口師は斯(か)かる推論は悪平等として批判されたが、、どの一点に中心を置いても、すべて無窮世界では中心たり得るものであるから、現象界に於いて蜘蛛の巣の如ざただ一つの中心を以て律することはどうかと思う」と云っているのであります。
 
 
「天皇に国民の運命を裁決させることには賛成できません」と云っているその青年自身が天皇の自己の生命を賭してのポツダム宣言受諾によって、現在安泰なる平和裡に生活し得ている事実を見なければならぬと思います。天皇がただの「看板」である時代に於いて、軍閥が、夫皇の名に於いて、天皇を利用して、自己の権勢慾のために、そして群衆心理の盲動のために大東亜戦争を始めたのでありました。天皇に国民運命の裁決権を与えないで、多数決の一票の差の如きもので吾々の運命が左右されることの方が余程危険なのであります。
 
再軍備の問題にしても、与党と野覚の投票数が数票の差で、国民の運命が或る方向へと強制せられる如き民主主義なるものに於いては、ただ一票の差によって、自已の愛せざる反対党の意見のままに国民の半数が、自己の好まざる運命に専制せられざるを得ないような結果に到るのであります。それよりも、一人の吾ら自身の愛する叡智者を信じ敬し愛し、.その人のみこころに自己の運命をまかせる方が、たとい、反対論者の云うように一時の叡智の晦ましから、不幸の運命に陥ることがあっても以て喜んで死に得るのではありませんか。本当に吾らが何者かを愛するとき、そのもののために死ぬのは純潔の極みであり、それこそが至上価値ある死に方ではありませんか。こちらを愛したら得になるから従うとか、損になるから背くとか云うのでは、何処にも純潔な至粋な愛は見られない。それはただ商売主義ではありませんか。本当の民主主義とは単なる利害によって動くようなコンマーシャリズムであって好いものでしょうか。尤も現在の日本の民主主義そのものが占領政策としてのアメリカのコンマーシャリズムから出発したものであるために、それに踊らされている人が利害打算の商売主義を以て民主主義だと誤解しているのでもありましょうが。


谷口雅春著  「私の日本憲法論」より
 
 
 
 
 
何故憲法を変えなければならないか
 
 
さて男性と女性とは、ともに「一」なる神から分化し、その生命を宿してゐるのですから、その基本的人権は平等でありますけれども、ひとたび男性となり女性となって出現した以上は、それは頭脳と心臓との働きが異なり、その措(お)かれてゐる位置が異なりますように、女性と男性とは異る役割を分擔し、その措(お)かれてゐる位置も異なるのであります。

それは真理を中心として自分の割當てられたる方向に働かなければならない。「古事記」はその原理を示してゐるのでありまして、「天之御柱(あめのみはしら)を行きめぐりて寝所(みと)の交合(まぐはい)せなと宣(の)りたまひて、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は左より、伊邪那美命(いざなみのみこと)は右より廻りましき」とあるとほり、男性原理は「陽足(ひだり)」であり、左は進むのであります。女性原理は水極(みぎ)でありまして、右は退(ひ)くのであります。それによって一圓相(えんそう)となり、家庭が国家が完全に調和するのであります。

これに反して、イザナミなる女性原理も男性原理と同様に前に進むと云うことになりますと即ち一圓相となることが出来ず、凸と凸と衝突して破壊してしまふほか仕方がないのであります。女性の自然の摂理的肉體構造から見ましてもこのやうなことは「自然」ではない、不合理だと云うことが判るのであります。男女は「一」なる神の生命を互いに分かち興へられてゐるのでありますから、平等の尊厳があるのは當然でありますが、その働きに於いて互いに異なると共に補足的でなければならないのであります。

「古事記」によりますと、イザナミは黄泉国(よもつくに)の神と云うことになってをります。ナミは水平運動でありますが、「一體の水」の波瀾(はらん)によって分裂した相(すがた)になります。この水平運動原理は、嘗(かつ)てロシアの労農運動となって現れたのであったし、ソ連の社会主義運動となって現れたり、また米国の民主主義運動ともなって現れてゐるのであります。それは個人主義であり、「分割して支配せよ」の文化であります。

黄泉国(夜見(よみ)の国)は日の落つるところ、即ち西欧にあたるのでありまして、西欧文化が「分割して支配せよ」の原理によって発達してゐるのはその分擔せる使命の達成でありまして、これが霊的文化以上に発達してまゐりますと、それは凹の分化でありますから、中から割れてゐるのであります。

家族国家を分割して個人烏合の集合の国たらしめ、姦通を公許して夫婦の乖離することを容易ならしめ、独占禁止法によって大産業を分断して生産を減少せしめ、忠孝の思想を分断して人情の美を破壊し、物質を分割して分子とし、分子を分割して原子とし、原子を分割して原子崩壊を惹起(じゃっき)せしめ、広島を長崎を烏有(ういう)に帰せしめ、更に第三次世界戦を惹起きして世界全體を粉砕して「空無(くうむ)」に帰せしめようとしてゐるのであります。日本の失敗は本来の霊的文化の使命を忘れて西欧の物質文化に心酔し、物質の破壊的方面をもって世界を征服しようと點にあるのであります。


つづく
谷口雅春著  「私の日本憲法論」より
 
 
 

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