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何故憲法を変えなければならないか
自然の花の美しさは、その花弁が中心に於いてバランスを得ているところにあるのである。豆科の植物や、すみれ科の植物のように、全体の花弁の構成が円周的に輸状になっていない花にしても、必ず、左右シンメトリーになっているバランスの支点に中心があるのである。人間の芸術になっている活け花の美は必ずしも円周的な輸状につくられないで、むしろ不等辺三角形をいろいろに組合わせた形になっているけれども、活け花を構成する花や葉や枝は、いろいろの方向に向いていながら"中心"にまとまる部分があって、そこが重心となって倒れそうで倒れないところに生命的な美が表現されているのである。"中心"がなく、重心となるところを支点として各方向に射出した枝葉や花がバランスを得ていないならば、それは活け花としては拙劣で死んでいるのである。すべてのものは〃中心“を失ったとき、そこに死があり生命を失うのである。
活け花の美は、いろいろの形の葉や枝や花のバランスを得た集合によって成り立つのである。ところで、その活け花の美を構成する部分であるところの葉や枝や花は、それらの部分が自由意志で勝手に集合して"活け花“の美を構成したのであろうか。決してそうではないのである。それは花を活けた人が、適当に枝や花や葉を配置して、おのおのの美を総合的に結集して“活け花"の美ができあがったのである。その活け花を創作したのは花を活けた人の"心"によるのである。”心“がその創作の主人公であり、すべての創造には"心"に描かれた"理念"(または設計、または構図)が先行するのであって、"心”こそ唯一の"美の創造主"であるのである。
さて、現行の日本国憲法に「主権は国民にありと宣言し」という宣言は、部分に主権があるという宣言であって、活け花の喩(たと)えをもっていえば、その活け花が美を構成するのに、その部分に過ぎないところの枝や葉や花にそれぞれ主権があって、彼らがおのおの合議して“活け花"という芸術品ができたというような考え方が、いわゆる民主主義国家理論であるのである。それはおよそ”生命あるもの””有機的存在者"の構成秩序に反するところの考え方であるのである。無論、外国の国家形成の順序には、人民の福祉と民族集団の防衛のため人民同士の協議により、集団組織を「組合」の如くつくりあげた種類のものがあるけれども、そのような国家に於いては統治権者が常に不安定であって、陰謀と軍事力によって王朝が常に代るか、国家主席が常に代るかして安定することはないのである。そうなるのは、国家形成の秩序が、"生命体"の発生構成の順序に則(のっと)っていないので、"生命体"としての一貴性を欠いているので崩壊しやすいことになっているのである。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」
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2012年12月06日
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