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「何故憲法を変えなければならないか」
一.国が栄えるためには、その国の国民が、共通の目的のために、国民の努力を集中できるような国家理想をまたなければならないのである。昔の日本国は「天皇」が国家理想の表現体であつた。天皇の大御心(おおみこころ)の中に「神意」を日本民族は見たのであつた。天皇は神聖で神聖であり、武家政治の時代に於いてすらも、その政権は天皇から授かる神聖なるものと感じとつていたので、征夷大将軍になるのも、関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん)になるのも天皇によって任ぜられたのである。その頃は、内部に政権争いや戦争があっても、究極のところでは国民が一つの国家理想によって統一せられていたのである。
しかし現在の日本国民は、国民ぜんたいが心を一つにして努力を集中するよう国家理想を見失ったのである。占領軍の強圧によって書かしめられた天皇の“人間宣言の詔勅“と占領憲法とによって、天皇は”神“でなくなり、天皇を国家理想の表現体と見る人は暁天(ぎょうてん)の星のように少くなったのである。そして日本国の国家目的が民主主義杜会の建設であったり、共産主義杜会の建設であったりして、支離滅裂の各人てんでんバラバラな目的をもって国民の精神が分裂してしまっているのである。
国民全体共通の国家理想実現のために協同して努力できない日本国の現状ほど、われわれ愛国者にとって悲しむべきことはないのである。私は「目本国民よ、もう一度、神武天皇建国の日本精神に立ち帰れ」と叫びたいのである。
日本の天皇政治を民主政治と対立し互いに相反するものだと考えるのは間違いであるのである。天皇政治の中に於てのみ、本当の「派閥のない民主政治」が育ち得て、私利私欲の追求で互いに憎しみ合うような民主主義が姿を消す可能性があるのである。天皇のみが私利のない私欲のない、世界万民の幸福を希(こいねが)い給う偏りのない「神聖権威」であるからである。この偏りのない「神聖権威」を上に奉戴して民主主義の政治が行われるときに、私利私欲による派閥闘争の汚れたる精神が浄められることになり、本当にルール。を守った民主政治が行われることになるのである。神聖権威を上に奉戴しないで、利己主義精神の顕現である個人が、利益追求の組合組織を国家と考えて、そこで、利益の相似た者同志が徒党を結んで政党を結成して、国会及び院外に於いて闘争するようなのは、「下の下」の民主主義政治なのである。現今の日本の民主政治は、この「下の下」の民主政治に過ぎないのである。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」
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2012年12月09日
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