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本来権利なき者の権利闘争
権利の根拠もないのに、権利を主張するのだから、それは空想の権利であるから、実質的にその権利の分量を測定することができないから、これだけ権利を満足したら、もうこれで十分ということはないのである。一つの権利を満足すれば、さらに一層その権利を満足しようという飽くなき権利主張が起って来て、それは停止するところを知らないことになるのであります。
戦前、戦中、戦後の物資の乏しい時代にくらべれば、人にもよるが、数倍、十倍、数十倍の文化的生産品を享受し、テレピ.アンテナが林立し・高速道路には自動車が互いに轂撃(こくげき)して延々長蛇の行裂なし、レジヤーを楽しむ費用を惜しまずにに使える結果、五月初旬の三日間の連休の間に数百人の行楽客が交通事故その他で事故死をするような時代になって、なお、できるだけ少く働いて、できるだけ多々益々の給料を貰うために闘争するのは、本来何の権利もなき人間が飽くなき権利を主張する矛盾から生じたものであるといわなければならないのであります。
こうして権利なき人間が「権利々々」と主張しながら阿修羅(あしゅら)の如き闘争世界を現じ、交通事故でゴルゴタの如き地獄世界に墜落しつつあるのが現状であります。そして、「それは自分が悪いのではない。国が悪いのである」と義務と責任とを他に転嫁する。こうした気の毒な人間を生み出したのが、現行の占領憲法の精神なのであります。
“許されて生きる”心境
本当の世界平和のためには、一燈園の西田天香師の説いたような「神に許されて生きる」謙虚なる精神に国民のすべてがならなければならないのである。「奪い合いをして生きるくらいならば生きまい」という聖なる決意をもって生活を出発すべきである。"戦争の放棄“も、負けて、敵が上陸したので今は敵にあやまるより仕方がないから、近隣の諸国民には「平和を愛する公正も信義もない事実」を知りながら、自分を欺いて、あやまり証文のように、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」などと、捕虜が占領軍に媚(こ)びるような文句を、一国の憲法に書き込んで、かろうじて、占領軍に寛大に取扱って貰おうというような卑怯な気持で、この押付け英文憲法を直訳で受け入れたような精神では、世界に恒久の平和がもたらされるはずはないのである。あらゆる個人も国家も、「神に許されてのみ生きよう。他を侵してまでも生きまい」という、神1元の精神に立ち返ってこそ、世界の恒久平和を維持することができるのである。そういう聖なる精神があらゆる国家と人類とを支配するまでは遺憾ながら、この世界はまだ戦国時代である。
現代には、日本の戦国時代にたとえれば、今川義元もおれば織田信長もおれば上杉謙信も武田信玄も前田利家も徳川家康も豊臣秀吉もいるのである。このような時代にあるいは国境をおろそかにし、あるいは他国の甘言(かんげん)に釣られて、兵を削減したり、戦略的に好意ある国と同盟を結ぶ必要のあることを忘れて自分の国を守ってくれる味方の国の兵力を追い出すようなことをしていたら、近隣の兵略すぐれた軍国主義国に滅ばされてしまうのである。ソ連も中共も原爆水爆の強大なる兵器を擁し、更に中共は人海戦術を用うるほどの人口を有して、国防相である林彪将軍(りんびょう)が今や正式の中共国家の毛沢東の後継者に選ばれているのである。
このような軍国主義国家にとりまかれている世界情勢において、日本が安全を得るためにはどうしても、日米安保条約を継続するより致し方がないのである。これは日本国家安全のための必須必需の要請であるのである。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
※今年もおつきあい頂きありがとうございました。来年が皆様にとって良い年でありますようにお祈りいたします。
来年は今年よりは良いはずです。あの民主党の閣僚達の顔を見なくてすむだけでもましです。!笑
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国民の権利の根拠はどこにあるか
だいたいこの占領憲法が国家の権利に優先して個人の権利が一層尊重されているのは、いかなる根拠によるものだろうか。
"権利""権利"と個人の飽くなき欲望の満足を主張して互いの欲望の主張が衝突するところに闘争が起るのであり、予想した欲望が充足されない時、欲求不満が起り、政府を怨み、国家を憎む不逞(ふてい)の国民を産みだすにいたるのであります。
私の尊敬している一燈園の故西田天香師は「許されて生きる」とか「"お光"に生かされて生きる」という語をよく使われたものであります。"お光"というのは"神"または"仏"の別名で、一宗一派の宗教に使う文字を故意にさけて、こうした通宗教的名辞を用いられたものであると思うが、人間が地上に生まれて来たのは、自分の力で自己主張して生まれて来たのでなく、「生まれる」という受身の語がおのずから示すが如く、生まれて来た( I was born) のである。人間はその出生の根源が自分の力でなく、われを産み給うた神の力によるのである。したがって、根源的に、人間には何の権利もないのである。「自分」から出て来たものは何一つなく、神の力によって生まれ、父母の恵みによって生かされ、大自然と衆生との御恩によっていろいろの生活の必需物を供給されて、その生存を維持しているのである。
「これだけは誰の世話にもならない、本来自分のものだ」というものはどこにもないのであります。それなのにどうして、占領憲法の第二十五条のように「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」などと、そんな権利を主張する根拠があるのだろうか。これは権利なのではなく、「そのような健康で文化的な生活を創造するの義務を負う」でなければならないのであります。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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国家は義務ばかりで、国民は権利ばかりの憲法
この占領憲法では、国家は国民の福利のために奉仕する義務があり、国民は国家から福利を得る権利があるのであって、国民の権利の条章のみが多くて、国家はほとんど義務ばかりを負わせられているのがこの憲法なのであります。
たとえば、その第二十五条には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とあるが、これは国家がその義務を負うということを言い換えたにすぎないのであります。私が不審に感ずることは、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努カしなければならないのは、人間自身の努カにまつべきであるのに、
人間の方には努力の義務はなく、ただそれによる福祉を受ける権利のみがあって、国家の方はそのために尽す義務があるばかりなのであります。
もっともただ一箇条、国民の義務が規定されているのは、第三十条の「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」という税金支払の義務だけであって、いかにこの憲法が金銭的であり、福利的であり、唯物論的であるかを暴露しているのであります。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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反国家的思想・学間の自由
占領憲法第十九条には、
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とあります。
そして第二十三条には、
「学間の自由は、これを保障する」とあるから、国民は反国家的思想をもち、それを"学"として学校で講義して反国家的人間を養成してもそれを国家が制止しようとするならば"違憲〃だということになるのである。
現今、盛んに起っている学生騒動はこの憲法に保障されて起っているのである。
一国の憲法は、国家そのものの意志や、国家成立の精神にもとづいて、国家の中において行なわれるいろいろの行為の規準を規定したものでなければならないはずであるのに、この占領憲法は、日本を弱体化するために起草されたものであるから、国家の権力を制限し国家そのものを縛るような条項を多数含んでいる、きわめて不思議な憲法なのである。
国民は、国家に属するものではなく、彼がその国家の国民となっているのは、自分の福利のためにつくった組合員になっているのであるから、国民がその国家に属していることが自分の福利に反すると思えば、いつでも、彼はその国家をはなれて、目本国民であるという国籍を脱することが自由にできるということを定めたのが、
第二十二条の、
「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」という条項であります。
この条項で注目すべき点は、「公共」と「国家」とがハッキリ区別されて書かれていることであります。国家は国民の福利のため奉仕する組合にすぎないのであるから、離脱すること自由とあるわけであります。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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個人主義を強調する占領憲法
占領憲法の第十三条には、
「すべて国民は、個人として尊重される」とありまして、ここにいかにこの憲法が反国家的であって、個人主義的憲法であるかを暴露しているのであります。
これは「すべての国民は国家の一員として尊重せられる」とあるべきでありまして、この憲法には国家観念がないから、「個人として尊重せられる」などと個人主義的ことを堂々と打ち出しているのであります。もっとも、その第十三条には、続いて、「生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあって、個人の権利追求に対し「公共の福祉に反しない限り」という制限は、設けてあるが、それは「国家の福祉に反しない限り」ではないのであつて「公共の福祉に反しない限り」と書かれている点に注目しなければならないのである。たとえば共産主義者が、「国家を破壊しても、共産国の衛星国にすることが、公共の福祉にかなう」と考えた場合には、国家の破壊工作を行っても、それは、この憲法に適するのであって、その革命運動を制圧することは、この憲法の下においてはできないのであります。
日本的思惟に於ける「公け」
日本の伝統的思考においては「公け」とは「大親家」であった。われらの生命は大生命より出で、大生命を大親として、そこより発して国家の形成となり、祖先、父母を通じて、大生命の流れを汲んで個人にいたるのである。大親なる大生命(天照大御神)のいのちの流れは国家の生命となり、祖先の生命となり、父母の生命となり、子孫の生命となる。ここに大生命→国家の生命→個人の生命は、一貫して一体であり、「公け」に尽すとは、自已の生命の本源の顕現のうち最も本源的なるものに尽すことになるのであります。
ところが、この占領憲法に於いては、公け(公共)とは、個人主義者の集団なるただの社会を意味するだけであり、「公共のために尽す」ことは、必ずしも国家の興隆のために尽すことではなく、国家をつぶしても「吾ら全般の福利のために尽す」という意味になっているのであります。そこに革命運動の種子が蒔かれているのであります。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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