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“日大解放区"の恐しさ
イデオロギーは他のイデオロギーを力ずくででも排することを命ずる。信じない者を力ずくででも信じさせる。イデオロギーとは本来そうしたものなんだ。それに人間性の恐しさが加わる。相手を殺してもかまわない、ということになる。
図書館前でのゲバルトだって、
「おい、そんなに殴ったら死んじゃうぞ」
って新聞記者がいったら、
「殺したってかまわん」
という返事だったそうだ。近ごろの角材には先端にとがった五寸釘を植えこんであるのも出てきている。
イデオロギーがあるのかどうか知らんが、すくなくとも人間性を解放したときの恐しさを示しているのが"日大解放区“だよ。女子学生を裸にして針金で縛り上げ、反対派を街中のさらし者にしてから手足や指を折り、ライターの火を裸の背中に押しつけ……あれがいい例なんだ。
青年は人間性の本当の恐しさを知らない。そもそも市民の自覚というのは、人間性への恐怖から始まるんだ。自分の中の人間性への恐怖、他人の中にもあるだろう人間性への恐怖、それが市民の自覚を形成してゆく。互いに互いの人間性の恐しさを悟り、法律やらゴチャゴチャした手続で互いの手を縛り合うんだね。
そうした法律やら手続やらに、人間性の恐しさにまだ気づかない青年が反撥するのは当然といえば当然なんで、要は彼らに人間性の本当の恐しさを気づかせてやりゃあいい。気づいた者と気づかない者、市民と青年これは永遠の二律背反だね。
困ったことにはすでに気づいた者の中にも、気づかなかった青年期へのノスタルジアがあって、気づかない青年たちの反撥にシンパシィ(同情)を感じ、中にはこれに付和雷同する者のいることだ。こういう連中にも、時折あらためて人間性の恐しさを知らせてやる必要がある。
だからこの際、東大を人間性の完全な解放区、つまり動物園にして、気づかない青年たちの"完全なる自治"に委ねる。そのときいかなる事態が生ずるか。身をもって学生たちに体験させる。イヤでも気づくだろうさ。
これをマスコミによって全国に伝えれば、市民としての自覚が中途半端な連中の再教育にもなるしね。一石二鳥、恰好のケース・スタディ、むしろチャンスだろうじゃないか。
三島由紀夫著 「若きサムライのために」
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2012年09月10日
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