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アメリカ風の美女
大体、西洋というものは、日本の鏡だったのである。
黒船がやってくるまでは、「松山鏡」の話ではないが、日本人は、いわば鏡のない国に住んでいて、自分の顔も満更じゃあるまい、とおぼろげながら信じていた。
ところが、西洋の鏡をつきつけられてみて、わがアバタ面にびっくりし、周章狼狽して、大いそぎで西洋から美容術と化粧品を輸入したが、俄化粧(にわかけしょう)がうまく行くわけもない。そういうとき、内面的精神的価値を信ずる他はなくなるのが自然の理で、明治という時代は、この大あわての俄化粧の顔と、外から見えない内面的な日本の美しい顔と、二つの顔を持っていた。
そのうち化粧もだんだん板についてくると、日本人の内面的精神的価値を信ずる生理的必要も滅少してきて、何となく主観的に、西洋人の顔と似ているような気がして、安心しだしたのが大正時代。鏡のほうもだんだんイカレてきて、正確な像を映さなくなった。
しかしそれだけでは物足りなくなるのが人間の心理で、強い反動がやってきた。何でもかんでも、世界一の美女であると信じたくなり、むかしのアバタ面を見た驚愕(きょうがく)など、忘れたくなった。そこで日本中の鏡をぶっこわすことになったのが、昭和の言論統制である。
大東亜戦争のあいだは、日本は世界一の美女であることになっていたが、何となく「ホントかな」という心配があった。素朴なる「松山鏡」の時代とちがって、一度鏡を知ってしまって、それをぶちこわしてしまったのだから、何となく後めたいのは当然である。鏡を隠し持っていたら、憲兵に引っぱられる時代であるから、世界一の美女だということにしておけば、まず安全であった。
敗戦の結果、又、西洋の鏡をつきつけられることになり、それで死にたいほど悲観したけれど、しかしそのショックは、別のショック、敗戦のショックのために緩和されて、明治初年の時ほどではなかった。
今度は俄化粧も上手になっていて、忽ちアメリカ風にお化粧し、ついにはアメリカ女に見紛うほどの美女になった。今度は鏡にとりかこまれていて、しかも相当程度の美女ということになったのだから、大安心である。この化粧の習得の早さも猛烈なもので、世界の驚異になったほどである。
しかし、かえりみるに、大東亜戦争中の、世界一の美女という、むりやりの、不自然なナルシシスム(自已陶酔)も、実は明治の文明開化の一つの後遺症であった。それはいかにも精神主義の時代であったようだが、一部をのぞいて、多くの人の心の中には確信がなく、第一、「きれいだ。きれいだ。お前は別嬪(べっぴん)だ」と言いつづけられていては、明治人のように、自分の内面的精神的価値を磨き立てて、人の目に見えぬ、もう一つの美しい顔を作り上げる必要もなければ、情熱も生れない筈だった。
さて、アメリカ風の美女になり、物質的にも、ミンクの外套の一つもやすやすと手に入る身分になってみると、はじめて、何となく、
「これでいいのかしら」
という気分が出て来たのである。
そう想つてまわり見廻してみたときには、日本を日本たらしめていたもの、日本人を日本人たらしめていたものは、ひとかけらも見つからない。火鉢は石油ストブに、堤燈(ちょうちん)は懐中電燈に、法被(はっぴ)はジャンパーに、腰巻はパンティーに変ってしまった。
その上、大正インテリが社会の上層薯部を占めていて、自分たちが知らないものだから、日本の伝統文化のなかの豊麗なもの、清純なもの、デカダンなもの、雄々しいもの、美しいものに対する客観的評価を不可能にしてしまった。
三島由紀夫著 「若きサムライのために」
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