|
比較を一切やめたら?
そこで西洋へ出かけてみる。
その西洋の大がかりな精神的伝統と物質文明の伝統に圧倒された新帰朝者は、「日本はまだ貧しい派」になり、現在只今の西洋の、文化的創造力の弱化、生活の平均化から、日本の生活水準との近接を感じとった新帰朝者は、「日本は大したもんだ派」になる。後者といえども、こっちが上ると共に、むこうが下ったことを勘定に入れていないから、その感想はあくまで主観的である。
そして両者とも、日本および日本人について、外国へ出かける前よりも、強い関心を持ち出した点で、表現こそちがえ、一種のナシヨナリストではあるが、かれらの議論が、どちらも、結局のところ、主観的独断的である点で、お茶漬の味に立脚した、お茶漬ナシヨナリストである。
その上、両者とも、日本人の精神的内面的価値に、本当のプライドの根拠を置いていない点で、明治の新帰朝者とは大ちがいなのである。つまり、「日本はまだ貧しい派」も、「日本は大したもんだ派」も、その尺度は結局西洋にあるので、その点では二者のあいだには、見かけほどの差はないと言っていい。せいぜい観察の角度の差ぐらいのところであろうか。
「日本には僻村にまでテレビや電気冷蔵庫がある。大したもんだ」そのテレビも電気冷蔵庫も、『源氏物語』に製法が伝授されているわけじゃない。みんな西洋近代の物質文明の発明品である。トランジスター・ラジオもカメラも、日本人と日本文化の発明にかかるものじゃない。今の日本の大威張りの根拠は、みんな西洋発明品のおかげである。
これはそもそも、大東亜戦争の航空機についてさえ言えることで、あの戦争が日本刀だけで戦ったのなら威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦ったのである。ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を日本刀のように使って斬死した特攻隊だけである。
そして今日の「日本は大したもんだ派」は、みんなこの上に立脚しているのである。私がお茶漬ナショナリストというのは、かれらのナシヨナリズムの根拠を追いつめてゆくと、舌の上に感じる「ものの味」という、どうにも否定できない、しかも主観的で説得力のない、そういうもののエモーション(情緒)を一方に持ちながら、一方では文明開化以来の迷妄に乗っかっていることだ。
では、「日本はまだ貧しい」とか、「日本はどうして大したもんだ」とか言わないで、問題をそんな風に大きくしないで、ただ、
「お茶漬は実にうまいもんだ」
とだけ言ったらどうだろうか?
比較を一切やめたらどうだろうか?大体、お茶漬の味とビフテキの味を比べてみるのからしてナンセンスで、どちらが上とも下とも言えたものではない。又、「フランス料理なら、本場のフランスより、日本で食べる奴のほうが旨い」なんてバカなことを言わないで、フランスにはフランス料理というものがあるが、日本にも、日本式フランス料理というものがある、と言うに止めたらどうだろうか?ここらで一切、もう西洋を鏡にするのをよしたらどうだろうか、というのが私のナショナリズムである。
私がもっとも気に喰わないのは、官僚などに巣喰っている文明開化的思考であって、オリンピックのとき、外人に恥かしいから、トルコ風呂を閉鎖しよう、とか、東京を清潔な都会に見せかけるために、夜十二時すぎの風俗営業を禁止しよう、とかいう愚かな考え方である。こういう考え方がのこっている間は、いつまでたっても日本人は、「自然な日本人」になれない。
浅沼事件が起ったとき、パリのムーラン・ルージュで、ヤダ・ダンサーズか、日本レビューを公演していたが、その一場面に短刀の殺陣(たて)があったので、「日本について誤解を招くから」と、日本官僚筋からその景のカットを勧告してきたそうだが、こういう愚かな考えは、決して日本精神から出たものでなく、文明開化の亡霊的思考なのである。
三島由紀夫著 「若きサムライのために」
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]





