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特集 なぜ憲法をかえなければならないか
民主主義の矛盾について 昭和四十三年
人間軽蔑と人間尊重の矛盾(過去記事2月13日掲載)
「人間は自分ひとりを治めることさえ安心して任せられないものだと言われることが時々ある。それならば、彼に他の人々を治めることをどうして安心して任せられようか。それとも、われわれは天使が人間を治めるために王者の姿をして現れたと考えるべきなのか」とはアメリカ合衆国建国の功労者の一人で、第三代の大統領になった民主主義の思想家ジェファソンの言葉である。この言葉の中には民主主義の欠陥がハッキリあらわれているのである。それは人間軽蔑の思想である。人間は自分ひとりすら治め得ないところの愚かなものであるから、どうして他の人を治める資格があろうか、それだから多人数の会議によって最大公約数的結論を出さねばならぬと言うのである。ところが民主主義の思想の、もう一つは「すべての人間は道徳杜会の一員として平等の尊敬を払われねばならぬのであって、その尊厳性は何人も侵すことができない」という人間尊重の思想である。この、一方に於いて人間を愚者として軽蔑しながら、他方に於いて「すべての人間を平等の尊敬をもって扱わねばならぬ」という矛盾命題の中で国民が生活せしめられるのであるから、民主主義社会に於いては常に内部闘争の契機を孕んでいるのである。
「三人寄れば文殊の知恵」とい諺(ことわざ)もあるけれども、「盲人が盲人の手引きをして崖から墜落する」というたとえもあるのである。盲人がいくら集団になったからとて目明きの聡明さになることはあり得ないのである。
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平等の権利・異る個性の矛盾(過去記事2月14日掲載)
民主主義の考え方の中には、二つの矛盾の性格を孕んでいるのである。それは、すべての人間は「平等の自由と権利」をもっているということ。そして、すべての人間は「異る個性と考え方」をもっているということである。この「平等の権利」の主張と「異る考え方」の主張とーこの二つの相反する主張を、国家という同一面の"場"に於いて調和せしめつつ生かさなければならないのが民主主義であり、それを調和せしめつつ、最大多数の国民が幸福になるように政策を進めて行くのが民主政治の要諦である。
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この混乱を救う道は(過去記事2月15日掲載)
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ここで前掲のジェファソンの言葉の最後の一節、「われわれは天使が人間を治めるために王者の姿をして現れたと考えるべきなのか」という彼の憧(あこが)れと歎息を思い起すがよい。民主主義と称する、多党化して自党の利益のみを主張してテンデン、バラバラになって争う内紛を常に内に蔵する政治形態よりも、もっとすぐれた政治形態への憧れがこのジェファソンの言葉の中にはあるのである。
それは、「天使が人間を治めるために王者の姿をして現れて人間を治めてくれる」という神話的な憧れである。しかしそれは決して単なる空想でも神話でもなかったのである。そういう天使の実現が日本にはあるのである。何党にも、いかなる閥にも属さずに「自分のからだはどうなってもよいから万世に泰平をひらくために戦争をやめる」と仰せられた天皇、みずからは戦争に反対しながら、多数決で民主的にはじまったあの戦争が終ると、「あの戦争の責任はひとり自分にあるから自分を罰せられたい」と占領軍司令官の前で自分ひとりが責任を引き受けようとせられた天皇ーこのような天皇によって政治が指導せられるとき、その国はジェフアソンの「人間を治めるために仮に王者の姿をしてあらわれた天使」によって治められることになり、どんなに国内に内部闘争や意見の対立があっても、その天使の〃鶴の一声〃によって内部闘争も意見の対立も消えてしまうのである。
このことは過去に於いて実際そうであった。終戦の時もそうであった。私はこうした天皇政治が復活することを待ちのぞむのである。日本国の不幸は天皇を政治の圏外に締め出して、私利私欲の固まりである個人及び党派の寄合い協議によって政治を始めることにしたことである。
"国民主権“は絵に描いたモチ(過去記事2月18日掲載)
国民主権と議会制民主主義との間には根本的に矛盾が存在しているのである。国民ひとりひとりに主権があり、思想の自由、行動の自由、言論の自由、表現の自由が憲法の条項の上では許されているけれども、国民ひとりひとりはことごとくその物の考え方が異るし、従ってまた思想も異り、その希望するところも異り、その希望を自由に表現しようと思うならば、必ず他の人々の希望の実現と衝突する事実にぶつからざるを得ないのである。だから国民主権などというものは、単に絵に描いた餅みたいなものであって』実際には食べられる餅ではないのである。
・・・・中略・・・・
、現ある利益団体の代表者議会制民主主義による国会というものは、利益団体と利益団体との戦いの"場"であって、その利益団体が二つである場合には二大政党というふうになるし、
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主権をもつという国民ひとりひとりは置き去りにされていて、ほとんど何の意思表示もできないのである。
・・・・中略・・・
日本国憲法に定められた国民主権というものは、実際には、絵に描いた餅、又は作文の上に創作されたウソの主権であって、日本国憲法そのものが、実際には持ち得ない国民主権を持ち得る如く偽臓して作文されたものなのである。
議会制民主主義の落ちつく先(過去記事2月18日掲載)
現状に於いては利益団体と利益団体とがその利益を守るために論戦をする"場"が国会であるのであるから・策略を弄して(この策略の中には"金も含む)人数をより多く集めたものが統治の権力を握るわけであって、民主主義政治というものは、おおよそ、そんなものなのである。だから常に利害の対立があって、負けた方の政党は、この何とか相手の政党を倒してやろうと策略を練るのである。
だから民主主義国家に於いては、国そのものの繁栄よりも、各自の利益団体の利益と権カの維持に施政の目標がおかれることになり、国会も院外も総じて謀略者の利益及び権力の争奪のための戦場となるのである。そこで国会は国民の総意などは反映しない、
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人間を物質的単位として取扱う民主主義
(過去記事2月19日掲載)
戦後、アメリカが日本に移入した民主主義というもの最大の欠点は、それが霊的民主主義でなくして、唯物論的民主主義であるということである。
唯物論というものはすべての存在を素粒子又は分子・原子に還元して考える。それが水素であり、ヘリウムであり、酸素であり、炭素であるということは、原子核の構成とその周囲を旋回する電子の数によって定まる。それによって質量がはかられ原子番号が付せられる。いろいろの性質の元素があるけれども、それは単に素粒子の数と配列の問題であって、みんな同じ単位の寄合いである。そこには特に何元素が高貴なというわけはないのである。それはただ数量的関係に過ぎないのである。
・・・・中略・・・・・
それゆえに君臣の義も、親子兄弟の義理もない、長幼の序もない、師と弟子との間には情誼もないのである。
・・・・中略・・・・
ロシア革命は、ケレンスキー将軍が、「将校も兵卒も平等の人間であるから、今後、兵卒は将校に敬礼しないでよろしい」といったことから端を発したと伝えられている。すべての人間は「物質の塊にすぎない肉体」であるから、どんなに偉そうに見えても皆平等である。
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つづく
谷口雅春著「私の日本憲法論」より
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