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国家は生命である
昭和四十二年 そのように考えてくるならば、国家という有機的生命体も、単位要素を結合して、国家をして「国家」という生命体とならしめるためには、単に"国民"ひとりひとりという単位要素が勝手気儘(きまま)に自主権をバラバラに主張して、寄合所帯(よりあいじょたい)を形成するだけでは不可能なのである。バラがバラの花を咲かせ、藤が藤の花を咲かせるためには、養分とか肥料とかいう単位要素が、ただ無定見にあつめられるだけではその個性ある花の形が成り立たないのであって、その養分とか肥料とかの単位分子を、バラの花の理念が優先してバラの花の形にそれを配列したとき、バラの花が咲くのであり、藤の花の理念が優先して、養分とか肥料とかの単位分子を藤の花の形に配列したとき、藤の花が咲くのである。生命体の形成には「理念」が単位分子に先行し、「理念」が単位要素を支配して、これを個性ある形に形成しなければならないのである。それゆえに「生命体である国家」も、国家形成の単位要素たる国民(民族個人)に先行して、その国それぞれの特徴ある国家理念が存在し、その国家理念によって国民が統合せられて、それぞれの特徴ある国家形態が成立するのである。
アメリカ合衆国にはその国旗(星条旗)によって象徴せられているような民主主義国家理念が、民衆合衆の姿に国民をあつめて、合衆国特有の国家形態を成しているのである。ソ連国家はその国旗(鎚(つち)と鎌(かま))が象徴するような労農階級が主導者となる国家理念によって、国民が統合せられているのである。日本はその国旗の"日の丸"が象徴するような、ただ日の大神を中心にして国旗の全領域が無色無心にその栄光を仰ぎ見るような国家理念によって国民が統合せられているのである。
ソ連の国家理念を合衆国に持ってくることが不穏当であるのと同じく、合衆国の国家理念をソ連にもってくることも妥当を欠くのであるが、(ここには人類普遍の原理などはない)現行の日本国憲法は、アメリカの民主主義国家理念にソ連の社会主義国家理念を少しばかり混入してソ連にも多少満足させて沈黙させておくための鵺(ぬえ)的理念で、"国民主権"という国家形成の単位要素に主権ありと定めた憲法を押しつけたのであるから、天皇が存在しながら、主権は天皇になく、国民にあり、天皇は基本人権すらないただの象徴(シルシ)という奇々怪々(ききかいかい)な文章をもって始まっているのである。おのおのの国家にはおのおの異なる個性ある国家理念があるべきなのに、アメリカ式民主主義に、チョッピリ、ソ連的社会主義的なものを加えた国家理念を押しつけて、これを「人類普遍の原理」であると誇称(こしょう)するのである。まことに驚き入った押しつけであるのである。
この憲法に基づいて、日本固有の"家"の美俗は廃止せられ、親孝行の必要はなく老人は社会保障制度で養い、教師は"言うまでもなく労働者"となり、生徒は教師を月謝で養っているのだと考え、大学生はストライキをする。これが人類普遍の原理であろうか。
国家形成に各国別々の理念がなく「人類普遍の原理」とやらいうもので共通されうるものならば、どうして自由主義国家アメリカと、共産主義国家"中共"とが、そのイデオロギーの相異によって争ったり闘ったりしなければならないのか。それは、国家形成の理念には「人類普遍の原理」などというものは存在しないからこそ、そして互いに自国の国家理念を他国に押しつけようとするからこそ、そこに戦争が起こるのである。
だから現行憲法の前文にあるところの「ここに主権が国民に存することを宣言し……これは人類普遍の原理であり」などということはアメリカが勝手に、自国の国家形成の理念に、ソ連の国家形成の階級闘争理念をチヨツピリ混じたものを、「人類普遍の原理」だなどともったいぶって押しつけたのであり、それが非真理性のものであることは明らかなことなのである。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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2013年01月19日
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