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天皇を「象徴」と観ることに対する反論
私は、占領憲法に於いて、天皇が何らの実権をもたず、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と定めて、ただのシンボルまたは一種の符号的、無人格的存在にしてしまったことに反対するものなのである。武藤氏は『改憲か革命か』の三十四頁に次のごとく書いている。
「古来の防人(さきもり)以来、つい敗戦前までの日本人は、天皇のために生命を献げて外敵と戦った。この場合『天皇』とは『国全体』ということの代名詞なのである。兵士たちは、見たこともない天皇個人に生命を献げるわけはない。対象が祖国即ち『国家』にあることはいうまでもない。ただ『国家』ではあんまり漠然過ぎて、つかみどころがない。これを一点に集中した象徴的な具象が絶対必要で、そこで生み出したのが『天皇』である」
私は武藤貞一氏の愛国の言論には常に共鳴しているけれども、以上の所説だけには反対である。これでは占領憲法に於いて、天皇を「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」と定められたことに全く同じなのである。武藤氏の所謂る「これを一点に集中した象徴的具象」ということは「占領憲法」にある「国民統合の象徴」にあたるのである。われわれは、象徴とかシルシとかいう無生命のものに、生命を献げるのではないのである。われわれは、生ける国家、生命体としての国家、その国家の生命の中核であり本質である天皇にこそ自分の生命を献げるのである。天皇を「国家の生命の中核」と観るのと、単に「国家の象徴」と見たり、「国家といっても漢然としていて国民の心を統合する中心になりにくいから、国民の心を一点に集中するために生み出した象徴的具象」と見たりするのは、天皇の本質についての理解が異なるのである。この点はやがて武藤氏はわれわれの説に同調して下さることだと思う。
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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2013年01月31日
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