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民主主義を再検討せよ
昭和二十七年
単に民主主義、民主主義と謂う名称や掛声が尊いのではない。付和雷同して民主主義のレッテルを貼ってあるものならすべて正しいと考え、自分の気に入らぬものを「非民主主義だ」と称して排撃さえすれば好いと考えるが如きは、戦争中に「非国民」だと云う一語で自分の考えとちがうすべてを排撃し去ったと同じ過ちを繰返すことになるのである。私は民主主義と称して行われた凡てが悪いというのではない。名称やレッテルで胡魔化されてはならないと云うのである。
所謂る民主主義はこうして「家」の観念の破壊と共に、人間の人格の自由を尊重すると云う名目の下に「肉体的欲望の自由」を唱道した。姦通は公許され、姦通しながら離婚訴訟によって生活費や手切金を要求する勇敢な女性もあらわれた。そして文学界では「肉体文学」が横行し、出版会杜は金さえ儲ければ好いと云う訳で猥褻文書が氾濫し、それを取締ろうとする当局を「言論の白由」を圧迫するものであるとして文学者総出でその取締りに抗争すると云うが如き不可思議現象を呈したのである。そして社会の多勢の人たちは、猥褻なことを見ることや、猥褻なことを書いたものを読むことが好きであるから、猥褻文書を取締ることは、多数者の欲望に反するのであるから、民主主義に反すると結論せられた。
何でも多数決であればそれを正しいとするのが民主主義であるならば、斯かる民主主義は文化発達の基礎を危くするものと云わざるを得ないのである。おおよそ大多数者と云うものはその当時の最高文化のレヴェルの標準までは往っていない。そして、その平均点数に一致せぬものは非民主主義的だと云って排撃する事になっているならば人類はその発展を大衆の平均点数まで引卸されるのである。多数者が猥褻文書を読むのが好きなら、猥褻文書を取締るのは非民主的であると云われる。多数者が姦通の自由がみとめられることを好むならば、姦通を有罪にすることは非民主的だと云われる。多数者が賭博がすきであったら、賭博を取締ることは非民主的だと考えられる。そしてついには、競馬とか競輸とか賭博的なものを奨励して市でそのテラ銭をとって、市の経費をまかなうのが適策だーとんだ民主主義が登場したものである。
所謂る民主主義は日本に何の目的で占領軍によって播種(はしゅ)せられたか、また如何なる効果を与えたか。独立後の日本は他からの政策によって何々主義と云うようなものを植付けられることなしに、白紙になって、今後日本を再建するには、「主義」などと云うものに泥(なず)むことなく、もっと「人間神の子」の本質的な立場になって考え直さなければならない時なのである。
谷口雅春著「私の日本憲法論」
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2013年03月14日
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