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表現文字の制限は文化を低下させる
私は「文塾春秋」から引用した文章を原文のままの「発音通り仮名遣」にしておいたが、私自身の書くものは、なるべく歴史的仮名遣を堅持しているのである。日本の民主化とは「言論の自由」と云いながらその使用する文字を制限することであり、言論の自由を奪うことだったのである。凡て占領中の占領者が被占領者に与えるところの施策は、被占領者の弱体化であるけれども、(ソ連に対する防壁として強化の必要を認めてからは別だけれども)正面から「お前を弱体化する為に」と云えば被占領者が反抗して収拾がつかなくなるから、一見道義的とか仁愛的とか感じられる言葉を用いているのである。常用漢字を設定し、子供の学習の便利にし、発音通りの仮名遣を用いさせる事は、幼弱な児童の頭脳を保持する為だと一見深切めかしく云われているけれども、早くから漢字を多数覚えさせたからとて頭脳が悪くなる様なものではないのである。
漢字の如き象形的文字は、視覚型の記憶力をもっている人には、アルファベットを組合せてする符号的文字を記憶するよりも記憶し易いのである。眼をつぶればその形が思い浮び、それが象徴する或る情調が思い浮ぶ。象形文字がその図形のもたらすそれぞれのニューアンスをもっている事は、絵の具が同じ「青」であっても色々の微妙な色調の変化がある様に、文字の象のもっているそれぞれのニューアンスによって吾々は色々の複雑多様な感情や情景を表現する事が出来る。符号的文字では電文を読むのにも似て、象から来る情景や感情が伴わない。しかもその象の奥にはその文字のもっている色々の歴史的背景から来る連想もあり、現在使われている漢字は、その歴史的存在として、単なる符号のあらわし得ない処のものを表すのである。西洋人には、そう云う文字の齋(もたら)す感情や感覚はわからない。意味がわかり実務に便利で勉強に労力が要らなければ好いと云うーしかし表現される言葉の数の多いほど、その国の文化が進んでいると云うことをあらわし、心の感受性が複雑化していることを示すのである。その国の文化的水準の高さはひとり物質的な機械や装備や発明力によって判断されるものではない。「機械文明がお前の方より進んでいるから、お前の国は後進国である、だから俺の国の生活習慣や社会生活の風習を教え込んで教化してやる」と云うが如きは、甚(はなは)だしい僭越(せんえつ)さであると云わなければならないのである。しかも占領軍のそう云う教化政策にいつの間にか胡魔化されて、日本人の美しい癖のない頭髪を火事場で焼けちぢれた陰毛のように気の毒にちぢらせたり、折角、美しい日本人独特の衣裳をやめて、大根に毛の生えたような太い脚に、ナイロンの靴下をはかせて雲助のような毛臑(けずね)をすき透らせて得々としている日本婦人や、姦通したり人工流産をすることが民主的当然の人権擁護であるが如く考え違いをしている日本婦人が多数出来て来たことは何と云っても残念なことだと云わずにはおれないのである。
つづく
谷口雅春著「私の日本憲法論」
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2013年03月18日
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