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過去を捨てる自由
昭和二十七年
新しき日本が生れる。新しい人間が生れる。朝々が新生である。咋日見た夢がどんなに見苦しいものであったにせよ。夜がそれを消してくれたのである。新しき日本が生れる。新しい人間が生れる。新しい人生が生れる。
新しい人生をつくり出す基礎は、過去を捨てる諸君自身の能力にある。敗戦した日本などはないのである。日に日に新しき日本である。戦前よりも数等すぐれたる新しき日本である。しかも占領下に押しつけられたる民主主義の日本であってはならない。すでにそれも過去である。遇去はないのである。万物は常に新しく生れる。過去を把(つか)まなければ遇去は消えるのである。押しつけられたる民主主義も結局過去のものである。それを捨てよ。捨てて新しきものを見出しそれに生きよ。
押しつけられ、宣伝されたる民主主義の中には日本を弱めるために正しいと宣伝されたる思想が沢山混っている。それを脱ぎ捨てる事を反動だとか、軍国主義に還ることだとか思ってはならないのである間違った民主主義が皇居前の乱闘を惹き起し、学生の警官つるし上げ事件が発生し、その反動として行き過ぎた学生と警官との乱闘事件が惹き起され、更に国会にまで暴力による法案通過の阻止が再三行われたことに注目しなければならない。
暴力を捨てる自由
本当の民主主義は「人間は神の子で平等だ」と云うことである。それは自分ばかりの権利を主張するためばかりの平等であったり、相手の自由を侵害しても好いような平等であってはならないのである。文部省の次官通達の意味をとりちがえて、学生が職務執行のために学内に立入った警官をつるし上げたと云う事の中には、あまりに通達とか法律とかの文旬に狗泥して、それに支配されている学生の態度が見えるのである。これは文章に縛られたのであって、学生自身の良心の自由を得たのではない法律や通達の文章は、天下の最も悪文章家の綴つたものであるから、どちらにでも解釈されるものなのである。警官は警宮の好いように解釈し、学生は学生の好いように解釈して暴力を揮(ふる)う。暴力のあるところに自由はない。自由を護ると云いながら、ひとの自由を暴力で束縛しては何の自由であるか。
「戦う」とか「闘争」とか言う言葉を捨てよ
吾々は、「自由のために戦う」とか「平和を戦いとる」などと云う言葉を人類の世界から拭い去らなければならないのである。言葉は「種子」であるから、「戦う」という言葉が人類に用いられている限りに於いてこの世界に戦争は絶えないのである。如何に多くの戦いが平和のための名のもとに行われたか。また平和のための名のもとに、国内争闘が現に行われつつあるか。そして戦争準備が行われつつあるか。
真の人類の平和を得るには人類すべては「人間・神の子」の自覚を確立し、自己を尊敬し礼拝すると共に、他の人をも尊敬し礼拝しなければならないのである。ひとを暴カによって押しのけるのではなく、相互に尊敬し、合掌し、礼拝し、よろこんで互に譲歩するのである。譲歩すると云うことを自己を束縛することだと考えている人や、ひとのために尽すことや、尊敬すべきものを尊敬しないことを民主主義だと考えて新人をもって任じている人もある。それが杜会の木鐸(ぼくたく)たる新聞記者の中にも随分あるから驚くのである。
谷口雅春著「私の日本憲法論」
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