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つづき 生命の全的把握としての「国」と「家」
「国」と「家」こそは、祖孫、親子一体の生命の具体的表現であり、過去と未来を「今」の一点に把握するその生命の展開であるのである。
この生命把握の認識が欠如して、ただ唯物論に孤立せる「個」としての、肉体、のみを「人間」だと感ずるがゆえに、一切の過ちとわざわいとはむらがり生ずることになるのである。
私が憲法復元を高唱するのはこの意味における祖孫・親子・一体の生命の宗教的心霊的把握の上からであって「現行憲法が単に、占領中に押しつけられたものであるから、その内容は良いけれども排斥する」というような、そんな根拠の薄弱なものではないのである。
真の民主主義は「個」としての生命が祖孫一体に拡大してのみ完成し得るのである。しかも前述せるが如くジャーナリズムの大半は言葉の利剣をもって現行憲法の改定をただ「改悪」として「斬捨御免」的に葬り去ろうとしているのである。
かくの如き一方的な言葉の暴力で日本の大衆は欺瞞されつつあるのにわれらは黙していて好いものであろうか、ああ、われらに協力して、真に日本を愛する人は出でざるか、愛国者協力してそれを運動化しなければ、国を救うことはできない。私は社会党(現民主党)に反対するものでも自民党に味方するのでもない。かつて本所区(今の墨田区)の細田製材所で講演をしたとき、今は亡き社会党の書記長浅沼稲次郎氏は私の前座を講演されて、大いに啓発された点がある、といって喜ばれたことを、私は思い出すのである。
鳩山一郎氏(民主党元鳩山総理の祖父)が私の鑽仰者(さんぎょうしゃ)であるのと好一対である。真理は自民党・社会党を超えて、炳焉(へいえん) として輝くのである。ただ党を立て、党の領袖となるとき、党略に左右され、党の同志に引摺り回され、いつの間にか真理を踏みはずすのである。党利に偏せず、党略に縛られず、ただ真理にのみ忠実なる者のみ、よく日本を救うのである。不偏不党ただ真理にのみ忠実なる哲人政治家の出現を私は待ちのぞむ。
谷口雅春著「私の日本憲法論」 |
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2013年04月12日
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