|
特集 つづき 占領憲法の非真理性とその影響
○安全のみならず生存までも"他国民まかせ。
(過去記事12月25日)
占領憲法で一番問題とされているのは、第九条の"戦争の放棄"である。
・・・・中略・・・・
「自衛のためならば陸海空軍はもってよいし、国の交戦権もあるのだ」ということになっていて、自衛のため.ならば核兵器をもってもよいというふうに拡大解釈される方向に進みつつあるのである。だからこの"戦争放棄"の条項は、ぜひとも改正しなくとも自衛隊や国防軍をもつことができないわけではないから、この第九条の戦争放棄のみが問題であるならば、日本国憲法の改正を必要とする必須の問題ではないのである。
それよりも重大なのは、この"戦争放棄"の条項のさらに背景になっているところのこの憲法の前文であるすなわち、
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある点である。
「われらの安全」だけではなく「生存」までも、平和を愛する他国の国民の公正と信義に信頼して、それに頼って保持するのであって、自分の力によっては自分の生存さえも、守ろうとはしませんと決意したというのである。しかし、
「そんな公正と信義を有する隣国はどこにも見当らないのである。」
○日本国民の血縁的一体観を破壊した憲法
(過去記事12月26日)
この占領憲法のさらに最も悪いところは、“家”の制度を破壊し個人を祖先および父母から分断して相互の関係を断絶したことであります。占領軍が、日本の良俗美風であるところの"家〃の制度の破壊を狙ったのは何故であるかというと、日本国が大東亜戦争中、世界五十二ヵ国と戦いながら、あれだけ強かったのは、日本国民は天皇を家長とし、天皇家を宗家とする一家族であるとの信念をもっていて、全国民一致団結して戦った結果であるから、日本を将来いつまでも弱小国の状態に陥れておくためには、「国民が天皇家を中心とする一家族」という日本民族独得の個性ある国家観念を打ち破っておかなければならないというわけで、“家”の制度を廃して、個人の男女夫婦の単位家族制度に改めてしまったのであります・・・・・省略
○個人主義を強調する占領憲法 (過去記事12月27日)
占領憲法の第十三条には、
「すべて国民は、個人として尊重される」とありまして、ここにいかにこの憲法が反国家的であって、個人主義的憲法であるかを暴露しているのであります。これは「すべての国民は国家の一員として尊重せられる」とあるべきでありまして、この憲法には国家観念がないから、「個人として尊重せられる」などと個人主義的ことを堂々と打ち出しているのであります。もっとも、その第十三条には、続いて、「生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあって、個人の権利追求に対し「公共の福祉に反しない限り」という制限は、設けてあるが、それは「国家の福祉に反しない限り」ではないのであつて「公共の福祉に反しない限り」と書かれている点に注目しなければならないのである。たとえば共産主義者が、「国家を破壊しても、共産国の衛星国にすることが、公共の福祉にかなう」と考えた場合には、国家の破壊工作を行っても、それは、この憲法に適するのであって、その革命運動を制圧することは、この憲法の下においてはできないのであります。
○日本的思惟に於ける「公け」
日本の伝統的思考においては「公け」とは「大親家」であった。われらの生命は大生命より出で、大生命を大親として、そこより発して国家の形成となり、祖先、父母を通じて、大生命の流れを汲んで個人にいたるのである。大親なる大生命(天照大御神)のいのちの流れは国家の生命となり、祖先の生命となり、父母の生命となり、子孫の生命となる。ここに大生命→国家の生命→個人の生命は、一貫して一体であり、「公け」に尽すとは、自已の生命の本源の顕現のうち最も本源的なるものに尽すことになるのであります。
ところが、この占領憲法に於いては、公け(公共)とは、個人主義者の集団なるただの社会を意味するだけであり、「公共のために尽す」ことは、必ずしも国家の興隆のために尽すことではなく、国家をつぶしても「吾ら全般の福利のために尽す」という意味になっているのであります。そこに革命運動の種子が蒔かれているのであります。
谷口雅春著「私の日本憲法論」より
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2013年05月13日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]




