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特集 つづき 占領憲法の非真理性とその影響
○反国家的思想・学間の自由(過去記事12月28日掲載)
占領憲法第十九条には、
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とあります。
そして第二十三条には、
「学間の自由は、これを保障する」とあるから、国民は反国家的思想をもち、それを"学"として学校で講義して反国家的人間を養成してもそれを国家が制止しようとするならば"違憲〃だということになるのである。
・・・中略・・・・
この占領憲法は、日本を弱体化するために起草されたものであるから、国家の権力を制限し国家そのものを縛るような条項を多数含んでいる、きわめて不思議な憲法なのである。
国民は、国家に属するものではなく、彼がその国家の国民となっているのは、自分の福利のためにつくった組合員になっているのであるから、国民がその国家に属していることが自分の福利に反すると思えば、いつでも、彼はその国家をはなれて、日本国民であるという国籍を脱することが自由にできるということを定めたのが、
第二十二条の、
「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」という条項であります。
この条項で注目すべき点は、「公共」と「国家」とがハッキリ区別されて書かれていることであります。国家は国民の福利のため奉仕する組合にすぎないのであるから、離脱すること自由とあるわけであります。
○国家は義務ばかりで、国民は権利ばかりの憲法
この占領憲法では、国家は国民の福利のために奉仕する義務があり、国民は国家から福利を得る権利があるのであって、国民の権利の条章のみが多くて、国家はほとんど義務ばかりを負わせられているのがこの憲法なのであります。
たとえば、その第二十五条には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とあるが、これは国家がその義務を負うということを言い換えたにすぎないのであります。私が不審に感ずることは、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努カしなければならないのは、人間自身の努カにまつべきであるのに、人間の方には努力の義務はなく、ただそれによる福祉を受ける権利のみがあって、国家の方はそのために尽す義務があるばかりなのであります。
もっともただ一箇条、国民の義務が規定されているのは、第三十条の「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」という税金支払の義務だけであって、いかにこの憲法が金銭的であり、福利的であり、唯物論的であるかを暴露しているのであります。
○国民の権利の根拠はどこにあるか(過去記事12月30日掲載)
だいたいこの占領憲法が国家の権利に優先して個人の権利が一層尊重されているのは、いかなる根拠によるものだろうか。"権利""権利"と個人の飽くなき欲望の満足を主張して互いの欲望の主張が衝突するところに闘争が起るのであり、予想した欲望が充足されない時、欲求不満が起り、政府を怨み、国家を憎む不逞(ふてい)の国民を産みだすにいたるのであります。
・・・・中略・・・・
占領憲法の第二十五条のように「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」などと、そんな権利を主張する根拠があるのだろうか。これは権利なのではなく、「そのような健康で文化的な生活を創造するの義務を負う」でなければならないのであります。
○本来権利なき者の権利闘争(過去記事12月31日掲載)
権利の根拠もないのに、権利を主張するのだから、それは空想の権利であるから、実質的にその権利の分量を測定することができないから、これだけ権利を満足したら、もうこれで十分ということはないのである。一つの権利を満足すれば、さらに一層その権利を満足しようという飽くなき権利主張が起って来て、それは停止するところを知らないことになるのであります。
・・・中略・・・・
できるだけ少く働いて、できるだけ多々益々の給料を貰うために闘争するのは、本来何の権利もなき人間が飽くなき権利を主張する矛盾から生じたものであるといわなければならないのであります。
こうして権利なき人間が「権利々々」と主張しながら阿修羅(あしゅら)の如き闘争世界を現じ、交通事故でゴルゴタの如き地獄世界に墜落しつつあるのが現状であります。そして、「それは自分が悪いのではない。国が悪いのである」と義務と責任とを他に転嫁する。こうした気の毒な人間を生み出したのが、現行の占領憲法の精神なのであります。
○“許されて生きる”心境 (過去記事12月31日掲載)
本当の世界平和のためには、一燈園の西田天香師の説いたような「神に許されて生きる」謙虚なる精神に国民のすべてがならなければならないのである。「奪い合いをして生きるくらいならば生きまい」という聖なる決意をもって生活を出発すべきである。"戦争の放棄“も、負けて、敵が上陸したので今は敵にあやまるより仕方がないから、近隣の諸国民には「平和を愛する公正も信義もない事実」を知りながら、
自分を欺いて、あやまり証文のように、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」などと、捕虜が占領軍に媚(こ)びるような文句を、一国の憲法に書き込んで、かろうじて、占領軍に寛大に取扱って貰おうというような卑怯な気持で、この押付け英文憲法を直訳で受け入れたような精神では、世界に恒久の平和がもたらされるはずはないのである。
・・・省略・・・・
谷口雅春著 「私の日本憲法論」より
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2013年05月14日
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